2016/09/22

ドラゴン・タトゥーの女

監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:ダニエル・クレイグ/ルーニー・マーラ/ステラン・スカルスガルド/スティーヴン・バーコフ/ロビン・ライト/ヨリック・ヴァン・ヴァーヘニンゲン/ゴラン・ヴィシュニック/ドナルド・サンプター/ヨセフィン・アスプルンド/ジョエリー・リチャードソン/ジェラルディン・ジェームズ/ペル・ミルバーリ/モア・ガーペンダル/ジュリアン・サンズ/マーティン・ジャーヴィス/インガ・ラングレー/ユルゲン・クレイン/ウルフ・フリベリ/ベンクト・C.W.カールソン/エヴァ・フリショフソン/マッツ・アンデション/アラン・デイル/ジョエル・キナマン/クリストファー・プラマー

30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3

【消えた少女の謎を追って】
 大物政治家の汚職を追求したものの、裁判で敗れたミレニアム誌の記者ミカエル・ブルムクヴィスト。失脚した彼に実業家ヘンリック・ヴァンゲルはある仕事を依頼する。表向きは評伝の執筆、だが本題は「消えた姪ハリエットを探し出す」こと。謎も確執も多いヴァンゲル家の内情やハリエット失踪当日について調査員リスベットとともに捜査するミカエル。彼らは、この一件と当時おこった連続殺人事件に何らかの関係があると考えるのだが……。
(2011年 アメリカ/スウェーデン/ノルウェー)

【意味あるリメイク】
 ニールス・アルデン・オプレヴ監督によるスウェーデン版『ミレニアム』の感想をザっとまとめると、以下の通り。
 調査過程の流れのよさが上質で、セリフや説明を極力省いて楽しませる上手さがある。やや解像度が粗く、空気感があり、人物を半分陰に置く立体的な絵も特徴。全体として丁寧に作られていて、2時間半を興味深く見せるパワーを持つ。

 ハリウッド版の本作も、ほぼ同じ。スウェーデン版のよさを残しつつフィンチャー風味を程よくプラスした、という印象だ。

 オープニング、スタイリッシュなモノトーン映像に「移民の歌」を乗っけるところからもう全開。逆光の中に人物を置いてシルエットで動きや心情を描いてみせたり、電車での移動や座っているミカエルの姿にすらアーティスティックな空気を漂わせたり。
 ノイズがそのままBGMとなり、その不協和音がリスベットの苛立ちを表現するなど、音響も作風を支える。
 一個一個の要素に意志を込めた密度の高さがうかがえる作品だ。

 いっぽう、セリフなしでカットをつないで状況を見せる上手さと、多数の人物とその関係を整理・説明する“わかりやすさへの配慮”、ふたつのメリハリを効かせてまとめる職人的な技も感じる。
 真相そのものは単純、アっと驚くような展開や謎もなく、いくぶん無理めのストーリーで、アクション要素はほとんどなく、ジリジリとした展開。それでいて不思議なスピード感を保っているのは、さすがだ。

 ただ、いかにも小説を映画化しました的なニオイがしすぎるほどだし、あっちかこっちか、どちらか1本観れば十分というレベル。だいたい、このリメイクの話を知って「ダニエル・クレイグとルーニー・マーラのコンビ。う~ん、ビミョー」と感じたくらいだし。

 ところが、本作の魅力の大部分というか、スウェーデン版より明らかにまさっているところはといえば、そのダニエル・クレイグとルーニー・マーラなんじゃないだろうか。
 どちらかといえば強面マッチョなイメージのダニエル・クレイグだが、それだけじゃジェームズ・ボンドなんかできないわけで。インテリジェンスや人としての意志の弱さも含めた“複雑性”をちゃんと演じられる、いい役者さんだなぁと、あらためて実感できるミカエルだ。

 それ以上に輝くのがルーニー・マーラ。脚本レベルでリスベットのキャラクターが少しばかり単純化またはベクトル変更されたのだろう、スウェーデン版に感じた近づきがたさのようなものは薄まっている。
 反面、少女性とでも呼ぶべき懸命さや残酷さ、自分が世間から異常だと見られていることを逆に武器としてしまうしたたかさはアップ。そうした“痛快な女性としてのリスベット”をルーニー・マーラが、まさしく痛快に演じている。

 この主演ふたりの関係性を再構築したのが、本作の意義。たとえばレンタカー店でふたりが別れる場面。描かれなかったけれど、そこまでリスベットはバイクの後ろにミカエルを乗せてきたわけだ。
 そんなふうに、順を追いながら、たがいの仕事ぶりにリスペクトを感じながら、静かに心を通わせ打ち解けてきた、という流れを読み取らせる描写が貫かれている。

 この関係の、この先を知れるのなら、続編を読んでみたいな。そう思わせる点で、このリメイクには大きな意味があるように思う。

●主なスタッフ
撮影/ジェフ・クローネンウェス
編集/カーク・バクスター
編集/アンガス・ウォール
美術/ドナルド・グレアム・バート
音楽/トレント・レズナー
音楽/アッティカス・ロス
衣装/トリッシュ・サマーヴィル
音響/レン・クライス
VFX/エリック・バルバ
以上は『ソーシャル・ネットワーク』『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』『ゾディアック』などで仕事をしたフィンチャー組
SFX/ヨハン・ハーネスク
スタント/キンモ・ラヤラ
以上は『ミレニアム』『ぼくのエリ 200歳の少女』の北欧組
脚本/スティーヴン・ザイリアン『マネーボール』
SFX/ロン・ボラノウスキー『コンテイジョン』
SFX/スティーヴ・クレミン『リンカーン』
スタント/ベン・クーク『スノーホワイト』

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2016/09/17

君の名は。

監督:新海誠
声の出演:神木隆之介/上白石萌音/長澤まさみ/市原悦子/成田凌/悠木碧/島崎信長/石川界人/谷花音/てらそままさき/井上和彦/大原さやか/花澤香菜

30点満点中20点=監4/話4/出5/芸4/技3

【あらすじ……入れ替わった彼と彼女】
 東京に暮らす高校生の立花瀧と、飛騨に住む女子高生の宮水三葉は、なぜか不定期的に「目覚めてから眠るまで体が入れ替わる」という不思議な日々を過ごすことになる。周囲に悟られぬよう、入れ替わっている間も瀧あるいは三葉として行動し、相手に宛てて1日の出来事を日記に残すふたり。が、ある時を境に入れ替わりは途絶える。どうしても三葉に逢いたいと考えた瀧は飛騨へと赴くのだが、そこで信じられない事実と直面するのだった。
(2016年 日本 アニメ)

★★★ネタバレを含みます。まず観に行け!★★★

【内容について……君の名前(と、おっぱい)を憶えている】
 女性の皆さんには、ついつい三葉のおっぱいに手を添える(っていうかガッツリ触ってにぎって上下させているか)瀧くんを、どうか責めないでいただきたい。女の子の身体に入ってしまった男は、例外なく間違いなく堪えることなく、ああしますから。ガッツリ触ってにぎって上下させますから。それが性(さが)ですから。

 宇宙と大地が光でつながれ、東京と飛騨の間を、beforeとafterを想いが飛び越える。時空を超えた“結びつき”は、新海映画に共通するテーマだ。さらに本作ではご丁寧に、髪、リボン、組紐によって“結び”を印象づけ、その意味合いはセリフでも説明される。ストーリー的にも真っ向から“結びつき”を描いていて、この監督の集大成的な作品といえる。

 集大成と感じる点が、もうひとつ。
 ラブ・ストーリーの本質は切なさにアリ、というのが当ブログのスタンスだ。本作でも「好きになっていく相手のことを目覚めれば少しずつ忘れてしまう」という設定および中盤で明かされるある事実によって、それは一定以上のレベルでクリアしている。
 けれど、では、エンディングはどうか。
「無償の愛と救済、その代償としての忘却」という無情(または無上)の展開が、ラブ・ストーリーを神の領域へと押し上げる可能性については『WALL・E』の感想で言及した。
 ましてや本作では「かくりよ」から出るためには大切なものを引き換えにしなければならないと告げられている。大切なものとは、自分の分身=かたわれだ。そして瀧と三葉にとってのかたわれとは「彼・彼女」または「彼・彼女として過ごした記憶」に他ならない。
 ならば、それを完全に失ってしまうことこそ本作にふさわしい“結”ではなかったか。

 ただしこの監督の過去作では、どちらかといえば、心の結びつきの不完全さ・不安定さ、喪失、失ったものは取り戻せないという絶対的真実……、つまりはまさしく切なさが前面に描かれていた。
 ところが今回は、「取り戻す」という希望の道、ルールも歴史もわからずやの父親も愛でねじ伏せて心の結びつきが(社会的・個人的な)大勝利を収める方向へと進む。
 過去作の反動なのか反省なのか脱却なのか。あるいはそもそも作り手の中に「心のつながりの結末は、ちょっとしたことでどんなところにでも転がっていく」という価値観があって、これまではたまたまAだったけれど今回はBで、ということなのか(パンフレットによれば、過去作のエンディングが必ずしも作り手の意図通り受け取ってもらえていない、ならば……という思いがあったようだ)。
 いずれにせよともかくも、過去の新海映画があったればこその舵取りであることは間違いないようだ。

 そして、希望へと“結びつく”入口として用意されるのが、名前だ。
 記憶はどうしても(本作のような特殊設定下でなくとも)薄れていく。思い出の品や写真もいずれは焼け、流され、朽ちる。けれど誰しもがひとつずつ与えられた名前という容れ物の中に、記憶や思い出を“つなぎ”止めることはできるかも知れない。
 数々の震災や台風の後で犠牲者の名簿が作られた(本作が3・11の影響を受けていることは確かだろう)。その「リスト」は、第三者からすれば記号の羅列に過ぎない。だが、親しかった者の名を見つけて「その人が確かに生きていたことの記憶・思い出」をなんとか蘇らせたとき、名前を通じて時空を超えた心の“結びつき”が生まれる。

 尋常ならざる「ふたりでひとり」という入れ替わりの時間を過ごし、いったんは大仕事をやり遂げた彼と彼女ならばあるいは、失った“結びつき”を取り戻せるかも知れない。何しろふたりの“結びつき”は3年も前に秘かに作られていた(三葉が投げたリボンを瀧がつかむ場面の鮮やかさ!)のだ。
 入れ替わりは宮水の巫女が1000年にも渡って受け継いできた、いわば神の差配。神のおかげで歴史改変は達成される。けれど挿入歌は宣言する。「運命だとか未来とかって言葉がどれだけ手を伸ばそうとも届かない場所で僕ら恋をする」と。
 そして瀧は“かたわれ(口噛み酒)”を取り込み、疑似的に「自分の中にいる三葉」を作り出す。躊躇なく神に捧げられたものを横取りする暴挙。その愚かさが、ルールを超え摂理を変えるかも知れない。
 たとえ相手の名前を、その中に“つなぎ”止められた記憶を失ったとしても、「名前を追い求める」ことだけは愚直に忘れないでいられるかも知れない。
 そんな希望のこめられた、愛おしき“人の愚かさ”の物語

 だから、責めないでいただきたい。「あいつに悪いよな」と躊躇いつつも胸に手を伸ばす瀧を。終盤、久々に三葉の身体を手に入れて涙ながらにおっぱいをつかむ瀧を。その温もりと柔らかさと罪悪感こそ、三葉に関する記憶そのものであり、彼女と“つながっている”証。バカな行為の中にも“結びつき”を見出してしまう、人の愚かさほど愛おしいものはない。思わず吹き出してしまったけれど、ここ実は泣くところなのである。

【作りについて……ディテール、声の芝居、展開の妙】
 美麗な背景は新海映画の魅力。見覚えのある場所、またはどこかにありそうな風景がクッキリと、でも作品の世界観を壊さない程度の柔らかさで再現される。聖地巡礼に向かう者が続出することに納得のクォリティ。とりわけ三葉in瀧の初回登校時、玄関ドアの先に広がる世界は「田舎暮らしの女の子が初めて生で接する東京の景色」としての説得力に富む。
 加えて今作では半月や陰陽などが各所に散らされ、ふたつでひとつ、かたわれといったテーマが美術面でも印象づけられている。

 背景だけでなく、動画もディテールを重視。髪を結ぶ仕草や声をかけられた際の反応は細かな動きまでナチュラルに描かれ、壁に貼られたメモをはがし取れば隣の紙がかすかに揺れ、ゲンノウで釘を打てば材木はへこむ。巫女の舞も流麗だ。
 三葉のキャラクターデザインが、萌えに寄らず、昭和を思わせる清楚さと現代的な活発さを両立させ、男女の区別なく愛される王道的ヒロインの佇まいを見せる点も素晴らしい(言い方を変えれば好みのタイプ)。

 音にもこだわっていて、小さな息遣いや風に洗われる草のざわめき、虫の声などが丁寧に拾われ、その生々しさが、こちらの世界と作品内との地続き感を上昇させる。RADWIMPSの音楽は、ややもすると歌詞の聴き取り・読み取りに労力を割かれるきらいはあるものの、野田洋次郎のソフトな歌声は画面によく馴染んでいる。

 VCとしての神木くんは作品を経るごとに上手くなっているのが実感できて、ここでは「ちょっと女の子っぽい発声」が実に可愛い。上白石萌音の凛とした、でも不満や戸惑いや楽しさがミックスされたこの年代の“青さ”も瑞々しく表現する声と演技も上質だ。
 長澤まさみと市原悦子はクレジットを見ても「?」となったほどで、つまりは作品とキャラクターに合致した声質と芝居だったということ。谷花音ちゃんも同様で、もうシンプルに上手いと思う。

 内省的なナレーションをベースに進むのは新海作品の常套手段だが、本作は独白だけに頼らず、前述の動画の細やかさ、閉められる引き戸ほかキャッチ的なカットを挿入しながらスピーディに場面をつなぐ編集、時制の組み替えと大胆な構成と手際のいい省略……などによって、ほのぼの系の前半から怒涛の後半までダイナミックに物語を展開させている。
 また昨今ではスマホの存在が、ストーリーやシーンの組み立てに大きな影響を与えること(そしてリアリティを生むこと)もよく理解できる。

 印象深かったのは、観る者の期待をほんの少し外す(上回る)「!」を多数突きつけてきたところだ。ただ縫われるだけではないスカート、いきなりバッサリと切られる髪、例の「泣きながら胸タッチ」、手のひらに書かれた言葉……。「こうだろう」という無意識下の予想を何度も優しく裏切ってくれる。誰の人生も誰かの期待通りではない、という事実は、人の生のおかしみであり、いつくしむべき真理。そんな主張がひっそりあふれている点が、この映画の愛される所以なのだろうと思う。

 それと、リピート鑑賞を強くオススメしたい。二度見れば、オープニングで瀧と三葉が抱いている想いをより深く感じ取れるはず。
 東京の場面では見上げるアングルが、糸守では見下ろすアングルが多用されていて、双方の地のイメージ統一に寄与。ラストの再会も「見上げる瀧、見下ろす三葉」だ。そして階段ですれ違って位置取りは入れ替わる。相手のポジションを自分の中に取り込むことで、ふたりは“かたわれ”を取り戻すのだ。これも二度目の鑑賞で気づいた点である。

 追記として。
 起きたら涙が流れる。ロシュ限界。星野之宣を髣髴とさせるパーツがあって、たぶんインスパイアされているんだろうな、と感じる次第。
 うちのR子は、ラストの舞台=須賀神社の階段の下が出生地らしい。

●主なスタッフ
脚本・編集/新海誠『秒速5センチメートル』
キャラクターデザイン/田中将賀『心が叫びたがってるんだ。』
作画監督/安藤雅司『パプリカ』
美術/丹治匠
美術/馬島亮子
美術/渡邉丞 以上『星を追う子ども』
音楽/RADWIMPS
音響/山田陽『シン・ゴジラ』
音響効果/森川永子
CG/竹内良貴 以上『言の葉の庭』

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2016/08/30

ロック・オブ・エイジズ

監督:アダム・シャンクマン
出演:ジュリアン・ハフ/ディエゴ・ボネータ/ラッセル・ブランド/マリン・アッカーマン/ブライアン・クランストン/ケヴィン・ナッシュ/ジェフ・チェイス/T・J・ミラー/メアリー・J・ブライジ/ポール・ジアマッティ/アレック・ボールドウィン/キャサリン・ゼタ=ジョーンズ/トム・クルーズ

30点満点中17点=監3/話2/出4/芸4/技4

【弾けろロック魂】
 1987年のハリウッド。シンガーを夢見てオクラホマからやって来たシェリーは、運よく知り合ったドリューの紹介で憧れの“バーボンルーム”に職を得る。そのバーボンでは伝説のロックバンド=ステイシー・ジャックス&アーセナルの解散コンサートが近づき、ロックを毛嫌いする市長夫人パトリシアの抗議デモが激化。シェリーとドリューの恋の行方は? 落ちぶれたステイシーは立ち直れるのか? パトリシアの狙いは何なのか?
(2012年 アメリカ)

【直球勝負】
 舞台となる1987年に来日したのは、ビリー・ジョエル、マドンナ、そしてマイケル・ジャクソンといったポップス界の超大物たち。当時、U2やボン・ジョヴィも『ビルボード』誌では“ポップ”に位置づけられていたらしい。ヒップホップも台頭を始めている。
 つまり、ロックの危機と呼べた時代。まぁ本作にちょっぴり漂う“ロックの危機”は、いくぶん誇張されたものだろう。だいたいこの映画自体、ノリが軽いし。

 監督は『ベッドタイム・ストーリー』のアダム・シャンクマンだけれど、『Glee』でもメガホンを取っていて、音楽のアダム・アンダース&ピアー・アストロムも『Glee』で名を売った人たち。そんなわけで本作もスタートからゴールまで一貫してYA向け、挫折と成功を歌う軽ぅい青春ミュージカルだ。

 うん、軽いお話と軽い作りだよなぁ。典型的おのぼり少女がロックスターを目指す若者と出会い、そこに伝説のロッカーが絡んでっていう安さ。ハリウッドの看板から夜景を見下ろしながら恋を語っちゃったりするし。「バーボンルーム」とか「ビーナスクラブ」なんてネーミングもヒネリなし。
 80年代風のダンスをとりたてて工夫せず撮るところも含め、愚直なまでに軽い。

 そこに、なんとかロック魂をプラスしようとする心意気が、この映画の味わい。1小節につき4~8カットくらい使って疾走感を演出し、シーンを夜と室内に絞ることで猥雑さも醸し出す。小便してる最中にもフェティッシュなプレイにも歌を乗っけて、なんともグルービィ。『マグノリア』や『ザナドゥ』をパロってしまうのも反逆のロック魂か。

 役者も、主演ふたりが生真面目にボーイ・ミーツ・ガールをまっとうする周囲で、“その曲を歌い続けている感”たっぷりに熱唱するステイシー役トム・クルーズ、悪ノリに近いところまで突き抜けているキャサリン・ゼタ=ジョーンズ、コミックリリーフの似合うアレック・ボールドウィンといった大御所勢がいい仕事。本作の作りのキモである「ストレートで実直なんだけれど、スパイシーさもプラス」というスタイルを体現するとともに、ニヤニヤを巻き散らかしてくれている。

「ハムスターが死んだとき、あなたの歌に救われた」
「男に品位を求めてもムダ」
 みたいに、音楽の真実、男女間の真理に突っ込んでいくのもロック魂といえなくもないか。

 スッゲーくだらない軽ぅい青春ミュージカルなんだけれど、そのくだらなさにロック魂を注入しようとして熱くなって、でもやっぱり軽いっていう、イケテなさもまたロックかもね、と思わせる作品。

●主なスタッフ
原案/クリス・ダリエンツォ
脚本/ジャスティン・セロー『アイアンマン2』
脚本/アラン・ローブ『ウォール・ストリート』
撮影/ボジャン・バゼリ『魔法使いの弟子』
編集/エマ・E・ヒコックス『パイレーツ・ロック』
美術/ジョン・ハットマン『ツーリスト』
衣装/リタ・ライアック『アポロ13』
音楽監修/マット・サリヴァン『ドリームガールズ』
振付/ミア・マイケルズ
音響/ジョン・A・ラーセン『猿の惑星:創世記』
音響/ミルドレッド・イアトロウ『幸せへのキセキ』

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2016/08/25

シン・ゴジラ

総監督:庵野秀明
監督:樋口真嗣
出演:長谷川博己/竹野内豊/石原さとみ/大杉漣/柄本明/余貴美子/渡辺哲/高良健吾/平泉成/松尾諭/手塚とおる/中村育二/市川実日子/津田寛治/塚本晋也/高橋一生/小松利昌/國村隼/小林隆/鶴見辰吾/ピエール瀧/斎藤工/松尾スズキ/野村萬斎

30点満点中20点=監5/話3/出4/芸4/技4

【あらすじ……日本vs巨大不明生物】
 アクアラインで海中トンネルが崩落。緊急閣議では海底火山または新たな熱水噴出孔が原因とされたが、内閣官房副長官・矢口蘭堂が危惧した通り、ほどなく巨大不明生物が姿を現す。東京に上陸し、形態を段階的に変えながら都市を破壊していく巨大生物。いったんは海へ消えたものの、さらに大きく変態した巨大生物=呉爾羅(ゴジラ)は鎌倉から再上陸、東京を目指して進み始める。日本はこの未曽有の危機を乗り越えることができるのか?
(2016年 日本)

★★★以下、ネタバレを含みます★★★

【内容について……希望と警鐘と】
 鎌倉から洋行台(いつものジョギングコースがうつったので驚いた)経由で東京へと進むゴジラの姿は、わが家からこんな感じで目視可能。で、JR根岸線・洋行台の駅前にはゴジラの足跡が残されていたりする。
Sg01


Sg02

 ちょ待て進路変更してるやん、こっち向かってくるやん、写真撮ってる場合ちゃうやん、的な。

 さて、軍人、科学者、たまたま巻き込まれた市井の人々が、未知の脅威と対峙しながら何とか生き延びようと、勇敢に立ち向かったり愚かに逃げ回ったりするアクション・エンターテインメント、というのがパニック・ムービー作劇の常套手段。『宇宙戦争』『クローバー・フィールド』、近年でいうと『世界侵略:ロサンゼルス決戦』『バトルシップ』。ハリウッド版の『GODZILLA ゴジラ』もこの路線だった。

 本作の場合、中心に置かれるのは政治家だ。
 初代『ゴジラ』の精神を受け継ぐ反核メッセージ、人々が逃げ惑う伝統の怪獣映画的要素、ゴジラの存在や生態的特徴に関するサイエンティフィックなエクスキューズ、「はぐれ者ばかりで構成される巨災対」というベタなエンターテインメントのノリ……など、諸要素はあくまでも味付け程度。ひたすら「巨大不明生物の出現から一応の終息までに何が起こったのかを、政府による対策・行動の中枢にいた矢口を軸として切り取る」という手法でストレートにまとめ上げる。
 いわゆる“人間ドラマ”は、ここにはない。枝葉もほとんど茂らない。そんなもの知ったことかと一本道で突っ走る。ほぼ事態の推移だけで押し通す。何たる潔さか。事件後に作られた再現フィルム、あるいはゴジラ出現時のシミュレーションといった趣だ。

 ただし、ただの再現やシミュレーションにあらず。出来事の向こうには、クッキリとふたつの言葉が浮かび上がる。

 まずは“希望”だ。
 矢口をはじめとする内閣官房/各省庁/巨災対/臨時政府のスタッフや、政治家としての尻の拭き方を心得ている総理代理らの見事な働きぶり。当然のように仕事をまっとうする自衛隊、共同作戦にすすんで名乗りをあげる米軍、日本が誇る「モノ作りやオペレーションへの高い意識」といったプロフェッショナリズムも称える。
 そこには、事態を動かすべき人たちと、彼らに協力できる知見・技術を有する人たちに対して、最低限これくらいの矜持を持ち、これくらいの仕事はしてもらわなければ困るという作り手からの訴えかけと、いやきっとしてくれるはずだという淡い期待が漂う。

 印象深いのは、巨災対のメンバーが、この極限下にあっても「ごちそうさま」を忘れないことだ。世界から美徳として賞賛され、けれど僕らにとっては常識以前、いわば性質たる“非常時にも持ち続ける礼節”が、実にナチュラルに肯定されている。

 最悪の事態を回避すべく法律と兵器と科学が総動員される、この映画。けれどそれよりもまず、人が人として持つ、責任や覚悟や知恵や行動力や「狼狽えず目の前の問題に取り組もう」というメンタリティこそが事を成し遂げるパワーとなるのではないか。そんな、人間と人間社会(とりわけ現代の日本人と日本社会)に対する“希望”が見えるのである。

 いっぽうで感じさせるのが“警鐘”だ。
 やたら「想定外」を連発する閣僚たち、さっさと決断しろよと言いたくなる及び腰で保守的な首相、手続きに沿いながらもその裏に確固たる(ある意味では恐怖を感じる)イデオロギーが潜む内閣官房長官と防衛大臣。
 政権内の人物像と彼らの言動は、危機意識・危機管理、自衛隊法を含む安全保障関連法、結論ありきの恣意的な法解釈、未曽有の大惨事あるいは異常事態(なにしろ京急だけが止まっているのだ!)における絶対的権限、この状況下で必要とされる人的資質……などなどの、ありかた、必要性と危険性、意義と懸念について深く考えさせる警告的トリガーとなっている。

 日本は、何とかあの苦難を乗り越えた。少なくとも乗り越えようとしている。それは誇っていい。でも復興は道半ば。いまだ17万人以上が避難生活を強いられており、廃炉は遠く、凍土壁の計画は破綻し、再稼働へ向けてのスピードとは対照的に再生可能エネルギー導入は遅々として進まない。近い将来、高確率でこの列島はまた揺れると予測されてもいる。
 そうした3・11以後のわが国の現状が、本作に色濃く投影されていることは明らか。熱核攻撃(国家崩壊に近い大打撃)の可能性とそれ以上の火種すら示唆しながら、固く唇を結んで前へ進もうとする矢口を描くエンディングは「胸を張れ。きっと次も上手くやれる。だが気を緩めるな、歩を止めるな」と、僕らに対して“希望”と“警鐘”を告げるものだと感じる。

 ひょっとするとこの映画を観た後、若者がなすべきことは、政治、役所、自衛隊・警察・消防といった道へ進むことなんじゃないか。
 旧防衛庁内では「ゴジラにどう対処するか」という議論がおこなわれたらしい。断言してもいいが、いまも自衛隊の中では有志が(茶飲み話レベルかも知れないけれど)同様の考察に取り組んでいるはず。米軍内でも、たとえば『インデペンデンス・デイ』をベースに「何ができるか」が研究されていたって不思議じゃない。
 そうした動きに加わることや、各役所で進められている自然災害や原発事故に関するハザードマップ&避難計画作成を、より大きく深刻な危険への対処にまで広げ、「想定外」をひとつずつ、できるだけ潰していくことが必要なのではないか。
 石破茂氏は、本作での法解釈に対し疑問を提示したという。それも政治家として元防衛大臣として、正しいリアクションなのだと思う。

 いや、対ゴジラ(に限らず国家的危機全般)に直接関わる職種だけではない。メーカーも商売人も主婦も記者も駅員も芸人も職人も教師もアスリートも中高生だって、日本と日本人の生活を、自身および身近な人たちの安全を守ることに、何らかの形で貢献できるはず。情報を集め知識を磨き行動力を育み礼節を忘れず、目の前に表れるであろう危機に粛々と積極的に他人任せにすることも狼狽えることもなく対処するため“備える”ことが、いま必要なのではないか。

 本作がつまらない、という声もある。このうち、東宝チャンピオン祭を期待して「メーサー砲もキングギドラも出てこなかったじゃん」という駄々には理解も同情もしよう。が、「会議ばかり」という批判、「登場人物たちに感情移入できない」との意見は理解しがたい。「そもそも感情移入を意図して作られていない」という説もあるようだが、これにも同意しかねる。

 なぜ「日本が徹底的に破壊される恐怖」を感じないのか。限られた時間と「法と手続きは守らなければならないという建前」のジレンマ。いたずらに国民に不安を与えることは避けるべきだが油断もさせてはならないないというジレンマ。そんな中で恐怖に立ち向かう人たちの姿に、なぜ感情移入できないのか。
 本作に心を動かされない人たちは、「国や家族や友人を守るだけの、責任も覚悟も知恵も私は持たないし持ちたくもない」といっているようなもの。数々の震災や憲法改正論議や日々の暮らしから何ひとつ学ばず、何も考えずに生きて、何も考えずに映画を観ている人たちなのだろう。

 どうも道徳・修身や愛国主義者みたいな物言いになっちゃったけれど、現在の日本に生きるいまの自分に「どうする?」「何ができる?」と問いかける役割とパワーを持つ映画であることは確かだと感じるのである。

【作りについて……疑問点もあるものの上々】
 余白が多く奥行きを意識し、顔を正面から捉えたアップも多用。状況説明や捨てカットを挿入しながら短いカットでテンポよく進めていく。アニメーション的なレイアウトと編集が、意外と心地よい。

 深海魚/両生類を思わせる第一~第二形態が、なかなかのツボ。なんだか間抜けなフォルムなのだけれど、その見てくれと起こっている惨事のアンバランスさは、本作に潜む重要なメッセージのひとつなのだと思う。真の恐怖は、誰が見ても感じる禍々しさとともに襲い来るとは限らないのだ。
 一転して第四形態は、伝統的ゴジラのそれでありながら、アンタッチャブルで不条理な生き物として背筋をゾワゾワとさせる動き(ここでは野村萬斎の貢献度が大きい)を見せ、ゴジラ有翼化の可能性も示唆される。おまけに放たれる光線はイデオンソード(第五使徒ラミエルにたとえる人も)。知る者にとってはもう圧倒的な破壊力と絶望の象徴だ。実際「これ勝てないんじゃね?」と観念しそうになったほど。
 作品のテーマと生態としてのゴジラの設定とデザインワークスとが、上手く絡み合った“ゴジラの具現化”だと思う。

 そのゴジラを表現したほか、破壊される都市、小気味いいブリーフィングを画面に刻むSFX/VFXも及第点以上。10式戦車や16式機動戦闘車などの挙動も(素人目には)スリリングに描かれていて楽しい。

 音楽は、伊福部昭へのリスペクトはいいとして「Decisive Battle」の採用は果たして正解だったのかどうか。画面や出来事にマッチし、ニヤリとさせる要素にもなってはいる。鷺巣詩郎によれば「ドキュメンタリーの象徴」とのことで、なるほど昨今ではこの曲が“緊迫”を示すものとして広く再利用されているという側面もあるだろう。が、リアルを貫く本作に『エヴァ』という空想物語=不純物が混じるのも事実だ。

 シナリオ(というか政府と自衛隊の対応)は、自衛隊ほか関係者とのミーティングを重ねたうえで作成、「ファンタジーはゴジラの存在だけ」というリアリズムを目指したとのこと。その点は確かに秀逸だ。ただ、やや説明口調のセリフが多く、いちいちテロップが置かれるのは映画的ではない手法。まぁこれも前述した「再現またはシミュレーション」と考えれば、むしろリアリティ向上に貢献する策かも知れない。

 おあつらえ向きの角度と高さでゴジラが倒れ、無人列車爆弾や放水車が瓦礫に邪魔されず突進し、気絶した生態の口から血液凝固剤が漏れないクライマックスは、さすがにご都合主義が過ぎる。
 が、これもまぁ、物語としてのカタルシスを創出して本作に“希望”をもたらすための、ギリギリの妥協ライン。実際あのシチュエーションでは、多少無理目の作戦(即席の対放射線仕様を施して水を汲んで原発の上から散水したCH47ヘリを思い出す)でも決行せざるを得なかったろうし、それがたまたま成功したバージョンのシミュレーション、といったイメージで捉えて「危なかったけれど、何とかやり切ったね」と、空しい安堵を味わえる結びとして受け入れることとしよう。

 頼もしい上司であるはずの大杉漣はさんざんアタフタした後に観念し、頑固で愚鈍な渡辺哲や平泉成がここでは頼もしく、人のいいおばちゃんからキャリアウーマンまで変幻自在の余貴美子は狂気にも似た信念を発露。人物像とキャスティングのマッチング(またはミスマッチ)が秀逸だ。長谷川博己なんか、不倫しているか勝気な女性に振り回されている印象しかない。そんな男だって国家存亡の危機となればやることをやってくれるのだ。

 唯一、カヨコ・アン・パタースンには注文をつけたい。批判されているらしい石原さとみの芝居は、別段問題なし。が、「祖母の国に原爆を落としたくない」という行動モチーフを口にしたのは余計だったろう。
 各キャラクターを掘り下げ過ぎないのが本作の良さなのだ。巨災対のメンバーなんか、たまたまそこにいる(または職能ゆえに集められた)人たち。それでも口調や振る舞いからは、これまでどんな人生を歩んできたのかうっすらと浮かび上がる、いい描かれかた。そんな人たちが一心不乱に働く姿を見せることで「全身全霊を賭して危機回避にあたることは当然。そこに理由などいらない。または理由など問うまでもない」という雰囲気が醸し出されるのだから。

●主なスタッフ
脚本/庵野秀明『キューティーハニー』
編集・VFX/佐藤敦紀『ステキな金縛り』
美術/林田裕至
録音/中村淳 以上『十三人の刺客』
美術/佐久嶋依里『悪の経典』
SFX/樋口真嗣
キャラクターデザイン/竹谷隆之
イメージデザイン/前田真宏 以上『巨神兵 東京に現わる』
音楽/鷺巣詩郎『CASSHERN』
音楽/伊福部昭『ゴジラ』
音響/野口透『ハウルの動く城』
扮装統括/柘植伊佐夫『おくりびと』
スタント/江澤大樹『麒麟の翼』

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2016/08/02

ボディ・ハント

監督:マーク・トンデライ
出演:ジェニファー・ローレンス/マックス・シエリオット/エリザベス・シュー/ギル・ベローズ/エヴァ・リンク/ノーラン・ジェラード・ファンク/アリー・マクドナルド/ジョーダン・ヘイズ/クリスタ・ブリッジス/ジェームズ・トーマス/ヘイリー・シセラ/クレイグ・エルドリッジ/ジョイ・タナー/ボビー・オズボーン/グレイス・タッカー=デュガイ

30点満点中17点=監3/話3/出4/芸3/技4

【ある殺人事件の真相とその後】
 母サラとともに、森に囲まれた小さな町へと越してきたエリッサ。ふたりには大きすぎる家だったが、かつて隣家で起きた凄惨な事件のため安く借りられたのだ。事件とは、少女キャリーアンが両親を殺害、森に逃げ込んだまま見つからないというもの。一帯の不動産価値を下落させたことで、生き残った隣家の長男ライアンは町の人々から疎まれていた。やがてライアンの親切や人当たりの良さに触れたエリッサは彼との仲を深めるのだが……。
(2012年 アメリカ/カナダ)

【B級だと腹をくくれば悪くない】
 これが『ハンガー・ゲーム』『世界にひとつのプレイブック』と同じ年に公開されたとは、にわかに信じがたい、ジェニファー主演のB級サスペンス。30年前のエリザベス・シュー主演作っていうならわかるけれど。

 実際、ジェニファーでなきゃ誰も観ないよな。もちろんここでも多彩な表情と安定感ある芝居を披露してくれているけれど、別に彼女じゃなくってもいいような役。ただ、相手役マックス・シエリオットもこの手のこのクラスの映画としては珍しく“切羽詰っているのに落ち着きがある”というなかなかの演技を見せていて、この組み合わせは悪くない。

 それに、どうせB級でしょ、と腹をくくって観ると、意外と面白い。
 予想のナナメ下へと突っ込んでいくストーリー展開。ここをこうしていればと思わせる部分もあるけれど、決定的な破綻はなくって、伏線もちょこちょこと散らしてあるし、「これこれこうでした」という説明の愚もフラッシュバックで上手く誤魔化してある。結果「あー、そういうことなのね」と、一応の納得とスリルとを両立させた仕上がり。

 序盤、カメラはグリグリと動き、たっぷりと状況を捉え、ビデオクリップ風の処理で“イマドキ感”も醸し出す。中盤から終盤にかけては畳みかけるようにサスペンスを盛り上げる。
 ひょっとしたら凄く哀しいラブロマンスに仕立てることも可能な物語を、音楽の乗せかたや編集なども含めた“作りかた”のベクトルをもう1ランク安っぽいところに統一させることによって、典型的なB級YAサスペンスとしてまとめ切った潔さが成功しているのだろう。
 要は作る側も「どうせB級」と腹をくくっているわけだ。

 それと「人がまだ起きていない朝は、大気が消耗していない」って、いいクドキ文句になりそうだ。メモメモ。

●主なスタッフ
原案/ジョナサン・モストウ『サロゲート』
撮影/ミロスラフ・バシャック『ランド・オブ・ザ・デッド』
編集/スティーヴ・ミルコヴィッチ『顔のないスパイ』
音響/マーク・ギングラス『THE GREY 凍える太陽』
音響/ジョン・ダグラス・スミス『ソウ5』
音楽監修/スティーヴ・リンゼイ『ウェルカム・トゥ・サラエボ』

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2016/05/11

ロンドンゾンビ紀行

監督:マサイアス・ヘイニー
出演:ラスムス・ハーディカー/ハリー・トレッダウェイ/ミシェル・ライアン/ジャック・ドゥーラン/ジョージア・キング/アシュリー・トーマス/トニー・ガードナー/オナー・ブラックマン/トニー・セルビー/ジョージーナ・ヘイル/ダドリー・サットン/リチャード・ブライアーズ/アラン・フォード

30点満点中15点=監3/話2/出3/芸4/技3

【チンピラと老人たち、ゾンビに立ち向かう】
 ロンドンのイーストエンド。定職につかずチンピラ生活を送るテリーとアンディの兄弟は、大恩あるレイ爺ちゃんの暮らす老人ホームが取り壊されることを知る。爺ちゃんを救う金を工面するため、兄弟は従妹のケイティや軍隊上がりのミッキーらと銀行を襲うことに。いっぽう老人ホーム近くの工事現場で発掘された古い墓の中では、白骨死体が作業員に噛みつく事態。やがて街にはゾンビが溢れかえり、強盗一味や老人ホームは孤立し……。
(2012年 イギリス)

【それだけ映画】
 ハッキリとC級。だいたい何だ、この実体を反映しない邦題は。ちなみに原題は『Cockneys vs Zombies』。うん、こっちだと「貧困層のチンピラどもが、気分も状況もヤケっぱちの中で、それでもいろいろと工夫したり思いやりを発揮したりしながらゾンビと戦う」っていう内容がちゃんと伝わってくる。
 で、映画としては、ただそれだけ。まぁ安い労働力の流入とか都市部における経済格差とかに対する弱者の叫びのようなものも含まれているのかも知れないけれど、少なくとも日本人から見れば“それだけ”映画

 それでも楽しさが詰まっていればいいのだが、どうも弾けない
 ゾンビものとしての面白いアイディアは、そこそこ見られる。化学工場とか軍の研究以外のゾンビ・ビギニングは一周回って新鮮だし、赤ん坊ゾンビとその対処法もタブーを犯すビッグチャレンジ。歩行補助器具なしでは移動できない爺さんとゾンビの駆けっこも、ゾンビ=走れないという設定を逆手に取った芸だ。
 血しぶきや特殊メイク、火の手が上がる街、湿った空気、そしてあちこちワラワラのゾンビなど見た目的にも、安い予算で頑張ってはいる。

 が、そこから一歩突き抜けないというか、アイディアが散発で作品トータルの面白さに昇華していかないというか。
 そもそもの部分における「こんなゾンビ映画を撮りたい」という熱さや、それをまとめ切るセンスが足りなかった感じかな。

●主なスタッフ
脚本/ジェームズ・モラン『タッチウッド』
編集/ニール・ファレル『スルース』
音響/サイモン・ガーション『パイレーツ・ロック』
SFX/コナル・パルマー『ディセント』
SFX/スコット・マッキンタイア『銀河ヒッチハイク・ガイド』
特殊メイク/サリー・オルコット『ファースト・ジェネレーション』
特殊メイク/ステュアート・コンラン『ショーン・オブ・ザ・デッド』
VFX/ポール・ノリス『アンノウン』
VFX/セルヒオ・アイロサ『ジョン・カーター』

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2016/04/30

レヴェナント:蘇えりし者

監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
出演:レオナルド・ディカプリオ/トム・ハーディ/ドーナル・グリーソン/ウィル・ポールター/フォレスト・グッドラック/グレイス・ドーヴ/ポール・アンダーソン/クリストッフェル・ヨーネル/ジョシュア・バーグ/ドウェイン・ハワード/メロウ・ネケーコ/アーサー・レッドクラウド/ロバート・モロニー/ルーカス・ハース/ブレンダン・フレッチャー/アンソニー・スターライト/チェスリー・ウィルソン

30点満点中20点=監4/話3/出4/芸4/技5

【あらすじ……ただ復讐のために】
 開拓期のアメリカ。毛皮の狩猟部隊がアリカラ族に急襲され、大勢が命を落とす。かろうじて生き残った者たちは砦を目指そうとするも、頼みの綱であるガイド役グラスが瀕死の重傷を負ってしまう。彼の最期を看取るため雪の山中に残ったのは、ネイティヴ・アメリカンの妻とグラスとの間に生まれた息子ホーク、若いブリジャー、そして報酬目当てのフィッツジェラルド。が、一刻も早く出立したいと考えたフィッツジェラルドの画策で……。
(2015年 アメリカ/香港/台湾/カナダ)

【内容について……ひたすら「状況下の行動」を描く】
 劇映画というより状況映画。このような状況・立場に置かれたグラスのような人間=サバイバルの知識を持ち復讐心に燃え目的を遂げるためには何も厭わない男が、どんなふうに行動するかをひたすら見せていく。

 内容・手法とも『エッセンシャル・キリング』に近いが、より生々しさが重視されている。「こんな場面を作ろう」「こんな展開にしよう」と理路整然と、あるいはエンターテインメント性を求めて構成したのではなく、「こんな状況下では、こうした出来事が起こるはず」という、現場に身を置いてはじめてわかることや、一種の思いつき(もちろん同様の経験をした人への取材に基づいているはず)で各シーンが作られているように感じる。
 マイケル・パンクによる原作小説は実話を基にしたものらしいから、現実に起こったこともかなり含まれているのだろう。

 劇映画ではない、と思わせるもう1つの理由が、大胆な省略。
 原作でどの程度の分量が割かれているのかは不明だが、グラスと妻との関係や、彼女が惨殺された事件の詳細、当時のグラスの喪失感、そしてホークを「俺には息子しかいない」と思い至るようになった経緯などは回想と心象風景に任せて、それ以上へと踏み込まない。

 ただ、「息子がすべて」という父の想いは人として根源的なものであり、いちいち説明したり時間をかけて描写しなくともいい、とも言える。それは同様に、ひたすら生き延びたいと願う本能、金への欲望、正義、後悔と自責の念……といった、各登場人物たちのモチベーションにも当てはまる。

 ただし、どんなモチベーションで行動しようが、どんな理由で生にしがみつこうが、結局のところ、その到達地点は“やっていたことの終わり”でしかないと本作は告げる。たいていの劇映画では「やったね!」という大団円が“終わり”に用意されているものだが、状況描写に力を注ぐこの作品の場合、“終わり”はただの“終わり”。安堵とか虚無感といった心情、あるいは死が、物語の結末というより“状況の終わり”として、絶対的な事実として、ドスンと迫ってくるのだ。

 普通ならラストで、グラスとアリカラ族のチーフが言葉を交わしたり思わせぶりな視線のやり取りをしたりするはず。それすらない。だってもうふたりは“終わり”を迎えているのだから。

 そして「ある状況下で人が見せる行動」が凄絶であればあるほど、行動に注ぎ込んだ熱量と“終わり”を迎えた後の「もう何もない感」、その落差が際立つ。人の体内でのエントロピー。
 ならば人の行動の凄絶さこそを愛おしもう、映画として残そう、というスタンスで撮られたのが、本作。そんな製作姿勢もまた、作り手たちが抱く生へのモチベーションなのかも知れない。

【作りについて……妥協のなさ、リアリティ、格の高さ】
 たぶんカット数は、一般的な映画の20分の1くらい。長回しに次ぐ長回し。けれど手抜きではないし平板にもなっていない。構図も人の動きもカメラワークも立体的。あり得ないくらい高い解像度に加え「レンズなんか、くもってもいいじゃん」という大胆さも見せる。おまけに全編が順撮りで、自然光のみで撮影されたらしい。
 そうして生み出されるのはリアルタイム性&その場感。観る者を現場に叩き込み、登場人物(主としてグラス)と一体化させる。長回しの意義とテクニックとを知るための、これは良質なテキスト。当然ながら撮影賞のオスカーを獲得していて、ルベツキの面目躍如たる仕上がりだ。

 音関係も、その場感の創出に寄与する。風、炎、踏みしめられる雪、川の流れ、正体不明の響きまでもが拾われてスクリーンを包み、音楽は深く静かに、あるいはショッキングに場面を揺さぶって、のっぴきならない空気を醸し出す。ロケーションも素晴らしく、引きでも寄りでもダイナミックだ。
 矢が飛び交い馬が駆け、高所から落ちたり血が散ったり指が飛んだり、惜しげもなく痛々しいアクションが展開する。VFXとSFXとスタントの頑張りも見事。

 こういうシーンが欲しい、というアイディアを自分の中に沸き上がらせ、それらを実現するために各スタッフへ適確な指示を出して十分な仕事をしてもらう、クリエーターかつ現場責任者としての監督の力量が確かに伝わってくる作りで、イニャリトゥの2年連続オスカーにも納得だ。

 オスカーといえば、悲願の獲得となったレオ様。「あんまり喋らなきゃ獲れたんじゃん」っていうのは禁句。というか誤った評価。悶々とした表情や苦しげな喘ぎ声だけでなく、通常のセリフでも喉から絞り出す微妙にくぐもったニュアンスがグラスという男に深みを与えていて、秀逸。
 フィッツジェラルドを務め上げたトム・ハーディも、ことさらエキセントリックに演じるのではなく、やや抑え気味に、極限下での身勝手さと冷酷さと浅はかさを上手に滲み出させている。
 恐らくは本当にネイティブの血を引く人たちを起用していることも含め、適材適所といえるキャスティングだろう。

 登場人物たちの血色がよすぎたり、服や顔があまり汚れていないようにも感じるけれど、「北米の雪山を彷徨う白人は、実はこんなもんです」と言われれば仕方ない(実際に生肉を食するなど徹底したリアリズム追求で撮られているらしいし)。
 全体として、妥協のなさ、リアリティ、格の高さを感じる作りである。

●主なスタッフ
脚本/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
撮影/エマニュエル・ルベツキ
編集/スティーヴン・ミリオン
音響/マルティン・エルナンデス
 以上『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
脚本/マーク・L・スミス『モーテル』
美術/ジャック・フィスク『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』
衣装/ジャクリーン・ウェスト『アルゴ』
ヘアメイク/グラハム・ジョンストン『アンノウン』
ヘアメイク/ロバート・A・パンディーニ『パーシー・ジャクソン』
ヘアメイク/ミシェル・ヴィットン『エージェント・マロリー』
SFXメイク/エイドリアン・モロー『インモータルズ』
音楽/坂本龍一『王立宇宙軍 オネアミスの翼』
SFX/キャメロン・ウォルバウアー『エリジウム』
VFX/リッチ・マクブライド『ゼロ・グラビティ』
スタント/スコット・J・アテア『THE GREY 凍える太陽』
スタント/ダグ・コールマン『メン・イン・ブラック3』
スタント/マーク・ヴァンセロー『96時間/リベンジ』
格闘/アダム・ハート『アメリカン・スナイパー』

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2016/04/19

ルーム

監督:レニー・アブラハムソン
出演:ブリー・ラーソン/ジェイコブ・トレンブレイ/ショーン・ブリジャース/ジョアン・アレン/トム・マッカマス/ランダル・エドワーズ/キャス・アンヴァー/アマンダ・ブルジェル/ジョー・ピングー/マット・ゴードン/ウェンディ・クルーソン/ジャック・フルトン/ウィリアム・H・メイシー

30点満点中21点=監4/話4/出5/芸4/技4

【あらすじ……彼は“世界”に触れる】
 小さな“へや”で暮らす幼いジャックとママ。誘拐された後、7年にも渡って納屋に監禁されているママことジョイは、ここでジャックを生み、オールド・ニックによる「日曜の差し入れ」を頼りに生きていた。5歳となったジャックにとっての現実は、ママとアイツと“へや”の中にあるわずかな物だけ、天窓の先も壁の向こう側も知らぬまま、外界との接点はTVと本のみだ。だがある日、ジャックが“世界”に触れるチャンスが訪れる。
(2015年 アイルランド/カナダ)

【内容について……“世界”とは何か】
 長期監禁や拉致誘拐は、イマドキでは(特に日本人にとっては)決して空想と思えないお話。ただ、この種の出来事に接した際に僕らが単純に考えがちな「奪われた時間や精神性」云々へと振った内容ではなく(もちろんそれらへの言及もあるけれど)、より根源的な部分、あるいは一歩進んだ地点へと観る者を引きずり込むパワーが、ここにはある。

 たとえば“へや”の中でジャックが過ごす時間の描写と彼の独白は、幼い子どもがどのようにして周囲や“世界”を理解していくのかを視覚化、言語化したものだ。自分だけに通用する(往々にして大人には理解できない)理屈が子どもの中に構築されている様子が興味深い。
 これらはジャックという特殊環境下に置かれた存在に限らず、いわば普遍的な「子どもの真理」であるはずで、そこへ切り込んでいった作り手の、人の成長に対する、温かで、畏怖にも似た視線が、いい。

 また、監禁からの脱出は事件の終わりではなく、途方もない苦難の始まりであることも本作は告げる。
 事件の動機や渦中を描いた作品は数多く、それが創作(とりわけエンターテインメント)の本道・本流であることは事実だろう。いっぽうで振り返ってみれば、『息子のまなざし』『息子の部屋』、スサンネ・ビア監督作の『悲しみが乾くまで』『マイ・ブラザー』『ムーンライト・マイル』『あなたになら言える秘密のこと』『再会の街で』『さよなら。いつかわかること』『BOY A』、『ラビット・ホール』……など「その後」に主軸を置いた映画もまたたびたび作られ、良作があふれている印象も強い。
 本作もその系譜に連なるものであり、「苦しみから抜け出したがゆえに襲い来る苦しみ」を描いている点では画期的でもある。

 幸いにして世間は「忘却」あるいは「関心の薄れ」という哀しくもありがたい特性を持つ。また、人間はどんな苦しみをも乗り越えられる力を持つのだと希望を抱ける内容でもある。
 でも、ただ忘却や、苦しみに直面している人自身の強さに期待するだけではダメだろう。

 カギは、ジャックやジョイに極めて近い場所でカメラが回る撮影プラン。そこに感じるのは“世界”が彼らを見ているという視点だ。そしてふたりを取り巻く“世界”とは、ほかならぬ、この映画を観ている“僕ら”なのだ。
 そう、これって、世界の構成要素である僕らひとりひとりが、何ができるのか、どう振る舞えるのかを問う映画なんである。

 優しく、辛抱強く、普通の暮らしへと向かおうとする、ばあば。恐らくは「何があってもすべてを引き受ける覚悟」とともに、いまのポジションにいるであろうレオの、静かな配慮。そして、パーカー巡査やミッタル医師らが示す職業人としてのプロフェッショナリズム。
 たぶん、忘却ではなく何ができるのかと考え実行することが、「その後」を生きる本人たちの意志と同等以上に重要で、大きな救いとなり、そういう価値観で作られた“世界”こそが、ジャックが触れるべき“世界”なのだと信じたいものである。

【作りについて……ふたりの力、それを引き出した力】
 主演のふたりが確固たる親子としてフィルム内に存在する奇跡。それが本作の価値を大きく押し上げていることは間違いない。

 本作で米アカデミー賞主演女優賞を獲得したブリー・ラーソン。ただし、これまでのオスカー受賞者の多くに感じられた「内面から湧き上がってくる情念をもって観る者をねじ伏せる芝居」というよりも、監禁生活を強いられている24歳の母親として「そこにいる」、ジョイという人物を実在化させている、といった趣だ。

 彼女以上に輝きを放つのが、ジャック役のジェイコブ・トレンブレイ君。放送映画批評家協会賞の若手俳優賞ほか数々のAward for Best Actorを受賞している(中にはクリストファー・プラマーを抑えた例も)。見た目からして『サージェント・ペッパー ぼくの友だち』のニール・レナート・トーマス君以来となる衝撃的なまでの可愛さなのだが、演技(いや、こちらもやはりジャックを実在化させたという印象だ)も極上。
 単なる天使ではない。ちゃんと等身大の5歳の男の子としてのリアリティもある。彼を発掘し、ジェイコブ君自身も堂々とジャックをまっとうした事実が、この映画最大のハイライトとすらいえる。

 撮影は上述の通り、“世界”目線でジョイやジャックを捉えていてダイナミック。適度なジャンプ、カットとカットの間をまたいで挿入される生活音などは、静かな時間の流れを作り出し、序盤では“へや”の中の歪んだ日常を整理しながら観る者に伝え、終盤ではジャックの成長を印象づけるのに寄与する。つまり、編集の技も冴えている。
 父親の自覚を持たない父親が買い与えたもの、という雰囲気が漂うジャックの服が面白い。生活感にあふれているのに息苦しい“へや”と、無機質ながら明るさに満ちて安心感を与える病室の対比など、美術も上々。

 そうした要素を丁寧にコントロールする演出も良質だ。アブラハムソン監督は前作『FRANK -フランク-』でも、役者の力量を余すところなくすくい上げていたし、「見た目的なセンスの良さと語りの上手さとを両立させたディレクション」を感じさせてくれたが、本作も然り。この人の真骨頂といったところだ。

 全体的な特徴としていえることは、出来事そのものが究極のドラマ(劇的事件)であるぶん、描写をことさらドラマチックにしすぎていない、という点。やや淡々と、でもしっかりと、その場で起こっていることや人物の様子を切り取ることで、見えているもの以上のことを画面に詰め込んでいる。
 たとえば、初めて「天窓によって切り取られていない空」を見上げたジャックの表情。なにも大仰なことはしていないが、それだけに説得力があり、映画史に残るシーンとなっているように思う。

●主なスタッフ
撮影/ダニー・コーエン『英国王のスピーチ』
衣装/リア・カールソン『マダム・トゥトゥリ・プトゥリ』
ヘアメイク/シド・アルマー『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』
編集/ネイサン・ヌーゲント
音楽/スティーヴン・レニックス
音響/ニオール・ブレイディ
VFX/エド・ブルース 以上『FRANK -フランク-』

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2016/04/15

セクレタリアト/奇跡のサラブレッド

監督:ランドール・ウォレス
出演:ダイアン・レイン/ジョン・マルコヴィッチ/ディラン・ウォルシュ/マーゴ・マーティンデイル/ネルサン・エリス/オットー・ソーワース/ディラン・ベイカー/ジェームズ・クロムウェル/フレッド・ダルトン・トンプソン/ドリュー・ロイ/ネスター・セラーノ/AJ・ミシャルカ/カリッサ・カポビアンコ/ショーン・マイケル・カニンガム/ヤコブ・ローデス/ケヴィン・コノリー/エリック・ラング/スコット・グレン

30点満点中18点=監3/話4/出4/芸4/技3

【燃えるような赤毛の馬にすべてを託して】
 優しい夫と4人の子供らに囲まれて暮らす平凡な主婦ペニー。母が逝き、父も弱り始めた彼女に遺された生家は赤字経営の牧場だった。唯一の頼みの綱は、ボールドルーラーの産駒。やがて仔馬はセクレタリアトと名づけられデビューする。距離不安が囁かれる中、愛馬の活躍を信じるペニーは、夫や兄の制止も聞かず、「自分のレースをしろ」という父の言葉を胸に、調教師ルシアンや厩務員エディらとともに、自らの道を突き進むのだった。
(2010年 アメリカ)

【意外といいが、看過できない点も】
 コイントスやビッグレッドなど現在の日本競馬にまでつながる逸話が出てきて、ハンコック親子やピンカイも登場。フィップス氏が「うちの会計士より遅い」と嘆いた馬の親Hasty Mateldaは、その子孫としてタイキシャーロックなんかが出ている。あと、セクレタリアトのシンジケートには善哉さんも参加してたとか。それにもちろんヒシマサルね。
 競馬ファンにとって、マストとはいえないまでも、いろいろ面白い要素が詰まっていることは確か。

 映画としても及第点。全体としてTVサイズにも思えるものの、真面目に作られている印象。ダイアン・レイン、ジョン・マルコヴィッチ、マーゴ・マーティンデイルの生真面目な芝居をコントラストの効いた画面で拾い、美術や衣装やヘアメイクの仕事も上質、音楽の雰囲気と乗せかたも手堅く、ダレないテンポと緊張感と叙情性とをキープしている。

 たとえばケンタッキーダービー前のセクレタリアト。飼葉を食べる様子で観客をホっとさせ、次いで“空になっていた1つめの飼葉桶”を見せてエディに勇気を与える。こういう気の利いた、クソ真面目だけれどちゃんと頭を使っていることがわかる描写が、本作の格を上げている。

 シナリオというか、お話の進めかたの手堅さが大きなポイント。セクレタリアト自身の見せ場は意外と少ないが、ペニーの伝記映画へと振ることでスマートにまとめてみせている。冒頭の葬儀で人物紹介や状況説明をすませ、そこから丁寧に、助けてくれる存在やライバル、家族の様子などを順序よく描いていくわけだ。

 なんでディズニーが競馬映画なんだ、という疑問も、ベルモントS前のダンスパーティーで「支える」、「つながる」、「想いの強さが人を動かす」といったディズニーらしいテーマを誠実にアピールしてみせて納得。

 そんなわけで、競馬ファンかつ映画ファンという立場の観客を満足させることなんか無理だろうとあまり期待していなかったぶん、仕上がりの良さにソコソコの爽快感を覚えるデキ。
 でも当然ながら、競馬ファンかつ映画ファンという立場からの不満もあるわけで。

 物語の原動力となる“ペニーのモチベーション”に関する描写不足が、かなり痛い。これに関しては田端到さんが書いていらっしゃる通り、「同牧場産のリヴァリッジがセクレタリアトの前年にケンタッキーダービーを制した事実をスルーしたこと」が主要因の1つだと思う。父さんが積み重ねてきたものを信じたからこそ、というペニーの行動のベースが明確に示されていれば、このあたりの不満は薄らいだはずだ。
 ただ反面、リヴァリッジの省略によって生まれたスマートさもあることは確か。ならばせめて“この牧場で父と過ごした時間”のフラッシュバックをもっと多用したり、「自分のレースをしろ」をより重要なキーワードとして扱うべきだったのではないか。

 僕ら競馬ファンは戸山先生が「スピードは天性のモノ。スタミナは鍛えられる」といえば「そういうもんだ」と、「菊花賞も自分のペースで走っていれば勝てた」といえば「なるほど」とミホノブルボンの競走成績を眺められる。そこには、それを僕らに信じさせるミホノブルボン自身の走りとか坂路の効用に関するデータ/印象といったものが大きかったわけで。
 セクレタリアトについても、単にペニーが「強いと信じている」だけでなく、その速さと強さを見る者に納得させるだけの根拠や描写ももっと欲しかったところ。あと、用語のリアリティもイマイチ。これは字幕のせいだが。

 それからレースシーン。直線で明らかに追っていない、それどころか手綱を絞ってるのは興ざめ。ベルモントSの再現度はペニーが喜んで手を振っているところも含めて上々だけれど。

 さて、本棚で眠っている『ホース・トレーダーズ』でも読むか。

●主なスタッフ
撮影/ディーン・セムラー『2012』
編集/ジョン・ライト『インクレディブル・ハルク』
美術/トーマス・E・サンダース『赤ずきん』
衣装/ジュリー・ワイス『きみがぼくを見つけた日』
音楽/ニック・グレニー=スミス『ザ・ロック』
音響/カミ・アスガー『ゾンビランド』
音響/ショーン・マコーマック『アポカリプト』
スタント/ラスティ・ヘンドリクソン『トゥルー・グリット』
スタント/フレディ・ハイス『3時10分、決断のとき』

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2016/03/11

マネー・ショート 華麗なる大逆転

監督:アダム・マッケイ
出演:ライアン・ゴズリング/クリスチャン・ベイル/スティーヴ・カレル/マリサ・トメイ/ジョン・マガロ/フィン・ウィットロック/メリッサ・レオ/レイフ・スポール/ハミッシュ・リンクレイター/ジェレミー・ストロング/ルディ・アイゼンゾップ/エイデン・フラワーズ/トレーシー・レッツ/アデペロ・オデュイエ/デイヴ・デイヴィス/カレン・ギラン/マーゴット・ロビー/セレーナ・ゴメス/ブラッド・ピット

30点満点中18点=監3/話4/出4/芸4/技3

【あらすじ……大逆転を賭けた一手、その結末は!?】
 格付けが高く、誰もが安全確実であることを疑わなかった住宅ローン担保証券(MBS)には、大いなる不安要素=サブプライム・ローンが組み込まれていた。その事実に気づいた孤高のトレーダー・バーリや正義感あふれるバウム、若きチャーリーとジェイミーらは、周囲の嘲笑を浴びながらも投資銀行にCDSを持ちかける。それは多額の保証金が必要となる代わりに、もしMBSが破たんすれば一転して巨額の保険金を手に入れられる契約だった。
(2015年 アメリカ)

【内容について……素人は痛感すべし】
 われわれ素人は安易な気持ちで金融商品なんかに手出ししちゃイカンよなぁと痛感させられる内容。プロ中のプロたちが「ローン開始時より借入残高が増える構造」のサブプライム・ローンに疑念を抱かず、あまつさえ「証券化できる債権の需要」を満たすためにそんな危ないモノを蔓延らせたって、それ、何だよ。

 MBSまではともかく、さらにその債権を担保とした証券(CDO)まで来ちゃうと、もう誰がどのタイミングでどれだけ損をするのかわからない。投資家や銀行だけじゃなく、住宅を供給するメーカーも調子に乗ってバカバカと借り入れして建築資金に充てていたんだろうなと想像すると、そりゃあドミノ倒しも起こるってもんだ。

 そのあたり、サブプライムローン問題~リーマンショックに至る“狂ったシステムと、その崩壊”について、あらかじめサラっとでも予習しておくことがベター。まぁデフォルトとかレバレッジとかデリバティブとか、明らかに素人の思考能力を奪うようなヨコモジに曝されて頭が痛くなるけど。

 ただ、そんな素人にもなるべく事の成り行きが理解できるよう、たとえ話を活用した親切な説明を挿入。さらに細部は上手に省略してキーとなる数人の言動に焦点を絞った構成としてある点は誠実だ。

 で、そのキーとなる数人が“勝ち組”になるわけだけれど、それは、恐らくはとびっきり頭が良くてとびっきり自分に自信を抱いているマイケル・バーリ、揺るぎない信念が怒りとなって発現するために周囲からの理解を得にくいマーク・バウム、とにかく他人を出し抜きたい一心のジャレッド・ベネット、若くて柔軟で怖いもの知らずのチャーリーとジェイミー、そして厭世の気配を濃く漂わせるベン・リカート、と、いずれも変わり者というか、逆にどこかで足下をすくわれて人生アウトになっても不思議じゃない(実際、本作中でもピンチに陥るし)面々ばかり。
 これくらい肝が据わっていないと、この世界では勝ち抜けないってことなんだよなぁ。

 そんな連中の四苦八苦を観察するのは、まぁ面白いことは確か。作中でベンが言及する通り、彼らの勝ちとは「これまで信じられてきたものの完全否定」であり、しかもそのおかげで多くの人に経済的な死が訪れるという皮肉と不条理が待ち受ける。その痛さも込められている。
 要は「疑うべきものを疑い、信ずべきものを信じよ」という警鐘だ。ただし全体としては「こんなことがありました」を脱していないようにも感じられて、その点は惜しい。

【作りについて……意外と真面目】
 うわっ、徳永英明の『最後の言い訳』じゃん。どういう経緯でインサートされることになったのか知らないけど、甘酸っぱい想い出が埋まった心のかさぶたをあんまりグリグリしないで欲しいもんだ。
 ほかにもリュダクリス、メタリカ、オペラ座の怪人、ガンズ、ニール・ヤング、ツェッペリンなどサントラは多彩。音の抑揚やオン/オフでリズムを作り出す技も聴かせる。

 監督がTVコメディの人なのでオチャラケ風味になるんじゃないかと危惧したけれど、それは杞憂。いやむしろ、大人しいくらい。派手なことや尖った部分はない。
 冒険といえばベネットおよび説明担当のセレブたちがカメラ目線で観客に語りかけてくることくらいだが、これも本作では妥当な工夫に思えるし、うつった瞬間に「クリスチャン・ベイルの目って?」とか「このスティーヴ・カレルは他人と仲良くできないな」「まだ青いふたりだな」と直感的に感じさせる適確かつ丁寧な撮影・編集もいい。物語を破綻させず、彼らの成功がわかっていてもスリルを持続させる、真面目な語り口が上々だ。

 登場人物たちとほどほどの距離を保ち、彼らの心の中を静かにすくい取ることに腐心しているようにも感じる。
 確かに、野心家のライアン・ゴズリング、天才肌の一匹狼でアスペルガーっぽいクリスチャン・ベイル、熱演のスティーヴ・カレル、修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ淡々とした佇まいを見せるブラッド・ピットと、キャスティングと、彼らのお芝居は上質。アンサンブルの高評価にも納得だ。

●主なスタッフ
原作/マイケル・ルイス『マネーボール』
脚本/チャールズ・ランドルフ『ザ・インタープリター』
撮影/バリー・アクロイド『ハート・ロッカー』
編集/ハンク・コーウィン『トラブル・イン・ハリウッド』
衣装/スーザン・マシスン『デンジャラス・ラン』
ヘアメイク/ジュリー・ヒューイット『ファミリー・ツリー』
ヘアメイク/アドルイーサ・リー
音楽/ニコラス・ブリテル
スタント/クリス・J・ファンガイ 以上『それでも夜は明ける』
音響/ベッキー・サリバン『パシフィック・リム』
SFX/ミシェル・ディクソン『猿の惑星:新世紀(ライジング)』
SFX/ドリュー・ジリターノ『世界にひとつのプレイブック』
VFX/ポール・リンデン『ゾンビランド』
スタント/ヴィクター・パギア『バードマン』

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