2017/12/17

ダンケルク

監督:クリストファー・ノーラン
出演:フィオン・ホワイトヘッド/アナイリン・バーナード/フィオン・ホワイトヘッド/アナイリン・バーナード/ハリー・スタイルズ/マーク・ライランス/トム・グリン=カーニー/バリー・コーガン/キリアン・マーフィ/トム・ハーディ/ジャック・ロウデン/ジェームズ・ダーシー/ケネス・ブラナー/マイケル・ケイン(声の出演)

30点満点中18点=監5/話2/出3/芸4/技4

【あらすじ……その兵士たちを救えるのか】
 第二次世界大戦中、ドイツの猛攻に遭いフランス北部の港町ダンケルクに追い詰められた英仏連合軍。ボルトン中佐の指揮のもと大勢が救出を待つ海岸では、トミーら若い兵士が一刻も早く撤退しようと悪戦苦闘する。ドーバー海峡を挟んだイギリスからは、ドーソン氏の操舵で小さな民間船がダンケルクを目指し出港。空からはスピットファイアを駆ってファリアーら空軍も援護に向かっていた。果たして数十万人の脱出劇は成功するのか?
(2017年 イギリス/オランダ/フランス/アメリカ)

★★★ややネタバレを含みます★★★

【内容について……描かれているのは、意外と内面】
 戦地では人間の心の中で、まずは2つの思いがせめぎ合う。すなわち「死ぬかも知れない」「死にたくない」だ。

 なんとか生き延びようと海岸でジタバタするトミーら下級兵士は、ひたすら「死にたくない」を行動原理として手を尽くす。愚かで滑稽で卑怯にも見えるけれど、とにかく純粋だ。いつもより知恵と度胸も沸いて出る。
 ただしそれが上手くいかないと、こんどは“自分より弱い他者”を攻撃しはじめる。なるほど足手まといを排除すれば集団としての生存確率は上がるだろうが、弱者を虐げることで「死ぬかも知れない」という恐怖を打ち消そうとする魂胆も見える。
 また、足手まといを排除することで「残った俺たちは強い」、だから「死にっこない」という3つ目の心理を手に入れて、その幻想も恐怖に対抗するための拠り所となるのかも知れない。

 撤退の指揮を執るウィナント大佐やボルトン中佐は、冷静に3つの心理のバランスを取る。「死ぬかも知れない」と分析しつつも決して焦りで我を失うことなく、「死にたくない」ならどうすればいいかを計算・実行し、部下たちを勇気づけるべく「死にっこない」という態度も示す。
 恐怖に幻想で対抗するのではなく、あくまで指揮官として為すべきことをおこない、その手続きが自信を呼び、自信によって恐怖に打ち克つ、といったところだ。

 ミスター・ドーソンら船を走らせる人たちは「死ぬかも知れない」「死にたくない」をひとまず心の奥底に隠す。でも「死にっこない」という過信には溺れない。
 そして、原動力となっているのは「死なせたくない」だ。
 息子を戦争で亡くしているミスター・ドーソンの中に芽生えた、この4つ目の心理は、ひょっとすると観客……戦争で死にそうな経験をした人などほとんどいないわけだし……にとって、もっとも感情移入しやすいものではないだろうか。
 思えば現代の反戦活動の多くも、「(自分が)死にたくない」ではなく、「(大切な人を)死なせたくない」がベースにあるように思う。非武装・非戦力の一般市民が戦争に対する当事者意識を持とうとするときには、この心理が大きな触媒となるのは確かだろう。

 空軍のファリアーやコリンズは、より強く「死なせたくない」と「死にっこない」を発露する。何も考えず機械的かつ最大限にベストを尽くしているようにも見える。たぶん、無条件にそこまで突き抜けることがいい兵士の条件なのだろう。
 が、帰還用の燃料を残さず追撃する道を選んだファリアーの行動は、決してベストとは言い切れない。それでもラスト、やるべきことをやり尽くした後、敵軍に捕獲されたファリアーは無表情だけれど、どこか誇らしく、同時に諦観も漂わせている。それは彼が、いい兵士ではなくいい人間であろうとして、このような選択をしたからなのだろう。

 死ぬかも知れない。死にたくない。死にっこない。死なせたくない。恐怖と覚悟、本能と願望、自信と幻想、決意と祈念。それらのバランスが、人の行動を決める。
 ただ、どれが強くたって、どう行動したって、死ぬときは死ぬ。本作の登場人物たちは運よく生き延びたけれど、その陰には死んでいった人たちも大勢いるわけで。あるいは生き延びたとしても、船に救出された英国兵のように、もう死について考えたくないと心を麻痺させる者も出てくる。

 表面的には“出来事(救出劇)を描いた映画”だが、実は、その出来事の中でうごめいている“人の内面”を、そこかしこから読み取れる作品なのかも知れない。

【作りについて……徹底したリアリティ】
 陸・海・空の3軸で展開するわけだが、時制の管理が独特。リアルタイムに進行させながらも、微妙に前後し重複する。陸の1・2・3→海の2・3・4→空の2・3→陸の4・5→海の5・6→空の4……みたいなイメージだ。そんな必要あったか、効果的か、と考えると疑問は残るものの、ユニークであり、この作りが不思議な感覚を呼ぶのも確か。

 フィルムにこだわり、IMAX70mmを使い倒したあたりはノーラン監督の真骨頂。「映画を観た」という満足感のある画だ。
 実際に撤退作戦がおこなわれた場所で撮影されたらしく、本物の軍艦を海に浮かべ(ひょっとしたら沈めるところまでやってるかも)、アンティークの飛行機を飛ばし、現場で爆撃の特殊効果までやらかしたんだとか。ギッシリ身を寄せ合って救出を待つ兵士の列は、1500人のエキストラに加え、厚紙を切り抜いて作った兵士を並べたそうだ。

 偏執狂的な取り組みがリアリティを生み、映画を映画たらしめる、ということがよくわかる。そうなんだよ、やっぱCGではなく、船はどーんと浮かび、戦闘機はぐーんと飛んでこそ、作品と観る側の距離も近くなるんだよ。

 ただ、この戦場はヒリヒリしているか、と問われると、『プライベート・ライアン』以来、もうさんざん打ち合いや爆発の中に叩き込まれている現代の観客からすると、ちょっとキレイすぎるかも知れない。

 役者ではファリアー役トム・ハーディが秀逸。ほとんど顔は見えないのだけれど、空編の主役、エースパイロットとしての存在感を始まりからラストまでキープする。

●主なスタッフ
撮影/ホイテ・ヴァン・ホイテマ
美術/ネイサン・クロウリー
ヘアメイク/ルイーザ・アベルとパトリシア・デハニー
編集/リー・スミス
音楽/ハンス・ジマー
音響/リチャード・キング 以上『インターステラー』
衣装/ジェフリー・カーランド
スタント/トム・ストラザース 以上『インセプション』
SFX/ポール・コーボルド『ウルフマン』
VFX/アンドリュー・ジャクソン『ノウイング』

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2017/12/07

ベイビー・ドライバー

監督:エドガー・ライト
出演:アンセル・エルゴート/リリー・ジェームズ/ジョン・ハム/エイザ・ゴンザレス/ジョン・バーンサル/CJ・ジョーンズ/フリー/ラニー・ジューン/ハル・ホワイトサイド/ポール・ウィリアムズ/スカイ・フェレイラ/ランス・パルマー/ハドソン・ミーク/ブローガン・ホール/ジェイミー・フォックス/ケヴィン・スペイシー/ウォルター・ヒル(声の出演)

30点満点中19点=監4/話2/出4/芸4/技5

【あらすじ……恋と音楽とハンドルと】
 子どもの頃に交通事故で両親を亡くし、自身も酷い耳鳴りに悩まされるようになった寡黙な青年ベイビー。そんな彼も、ひとたびイヤフォンを耳に突っ込んでゴキゲンな音楽を再生すれば能力全開、驚異的なドライビング・テクニックを披露する。ある事情から犯罪集団のボス=ドクに指示されるがまま強盗犯の逃走を手助けしてきたベイビーだったが、ダイナーで働くデボラと恋に落ち、この状況から抜け出したいと願うようになるのであった。
(2017年 アメリカ/イギリス)

★ややネタバレを含みます★

【内容について……日常はリズムに支配されている】
 やむを得ない事情で犯罪に加担している男が、大切な人を守るため、そこから抜け出そうと苦悩する。これ、『水戸黄門』では1シーズンに必ず1回は出てくるパターン(大袈裟じゃなくマジで)。
 しかも本作、終盤の展開がかなり強引。誰も(肉体的に)傷つけたくないと考えていたベイビーがいきなり暴力的な行為におよぶし、冷徹なドクは前触れなく情熱に目覚めちゃうし、デボラは躊躇なく現在の安寧を手放し過去も振りかえらず危険な道を歩んじゃう。
 だから物語としては、けっこー安いしグダグダですよ。

 けど憎めない。むしろ愛すべき映画に仕上がっているのは「音楽に乗っけてリズミカルにクライム・サスペンスを描きたいよね」という思いつきを完璧にやり切っているから。
 どこかで「犯罪映画版の『ラ・ラ・ランド』」っていう評を見かけたが、いやこっちのほうがファッショナブルでハイセンスでしょ。『ラ・ラ・ランド』は舞台でも出来なくはない。それに対しこちらは映画ならでは、だし。

 とりわけオープニングからの約10分が秀逸で、セリフも説明もほとんどなしにベイビーのドライビング・テクニックと機転と犯罪計画の周到さ&危うさを見せつけて、はやくも傑作確定。その後もドクの立ち位置や彼とベイビーの関係、ゴロツキどものキャラクター、ベイビーと育ての親ジョーの交流、デボラとの出会いなどを音楽とともに澱みなく描写していく。

 ここまで徹底して音楽と出来事をシンクロさせられると、もはや「日常はリズムに支配されている」なんて思いもわいてくる。
 意志の疎通にまわりくどい言葉なんかいらない、1つの曲を通じてたがいに感じ合う何かと、たとえ拙くとも全身で想いを表現する懸命さ(手話をフィーチャーしてあるしね)があればいい、というメッセージが届く。

 本作の元ネタ、というか、エドガー・ライトの「こんなことやりたい」をコンパクトな形で実現したビデオクリップ、ミント・ロワイヤルの『Blue Song』は2003年の作。見比べてみると、もちろん予算の違いもあるけれど、この十数年で「アイディアの視覚化技術」がいい感じに熟成したことがうかがえる。

【作りについて……役者と撮影まわりの素晴らしさ】
 主演のアンセル・エルゴート。とりたててイケメンではないのだけれど、厭世感、後悔、若者ゆえの気楽さと無鉄砲さ、愚かさとインテリジェンスなどがいい案配にミックスされ表出していて、ベイビー役にハマる。
 ヒロインのリリー・ジェームズ。こちらも超美形とは言えないが、十分に可愛く、ベイビーが出会う「僕の痛みを理解してくれそうなコ」としての説得力にも富む。
 ダーリン役のエイザ・ゴンザレスも、はすっぱな感じと度胸と色気と年下を可愛がるおねーさんぶりを上手に醸し出していて、なかなか。

 ドク=ケヴィン・スペイシーと、バッツ=ジェイミー・フォックスは、正直この両者でなくとも務まる役だろう。でも、こういうイカれたプロジェクト(もちろん褒め言葉です)で「現場の要となり、プロモーションの軸となって監督がやりたいことと作品のヒットを支える」「若きタレントの出世シーンを脇から盛り立てる」のもオスカー俳優の仕事(これ観に行ったのってケヴィン・スペイシーの「もうすぐ公開だよー」っていうツイートがキッカケだし)。そうした意味ではベテランの余裕を見せてくれている。

 撮影は『スパイダーマン3』などのビル・ポープで、編集のポール・マクリスや音響のジュリアン・スレイターともども『ワールズ・エンド』などで監督と仕事をしていた面々。そのせいで息ピッタリ。また2ndユニット・ディレクターは『ドライヴ』などのダーリン・プレスコット。彼らスタント・チームの働きも尊い。
 カーチェイスも銃撃も迫力たっぷりで、それらを捉えるカメラ、つなぐ編集もお見事。監督が思い描いていたであろうスピーディーでワイルドでリズミカルでファンタスティックでスリリングでユニークな映像世界をガシっと作り上げ、本作の魅力の大部分を創出している。

 音楽監修は『アバウト・タイム』などのクリステン・レーン。エンニオ・モリコーネにビーチ・ボーイズ、Tレックスにクイーン、『世界にひとつのプレイブック』でも印象的だった「Unsquare Dance」……と、登場する音楽はどれも心地よくベイビーと観客の体内で血をたぎらせる。
 中でもベイビーのママ=スカイ・フェレイラによる「Easy」は、低く優しくややハスキーな歌声がズドンと自分好み。この曲だけで本作の評価が何ポイントか上がる。

 ベイビーが操る、ポータブル再生/サンプリング/音楽編集用の機材は、見る人が見ればヨダレが出てきそうなラインナップだろう。そうした細かな悦びがチョコンと配されているのも、いい映画の特徴である。

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2017/12/04

東京喰種 トーキョーグール

監督:萩原健太郎
出演:窪田正孝/清水富美加/蒼井優/相田翔子/桜田ひより/柳俊太郎/白石隼也/佐々木希/浜野謙太/坂東巳之助/小笠原海/古畑星夏/ダンカン/岩松了/前野朋哉/鈴木伸之/大泉洋/村井國夫

30点満点中15点=監3/話2/出4/芸3/技3

【あらすじ……新たな“種”としての道】
 人を襲って肉を食らう“喰種(グール)”と呼ばれる者たちが、人間の社会に紛れ込んで暮らす東京。気弱な大学生・金木は、ある事件をキッカケとして、そのグールと化してしまう。グールの中でも穏健派である芳村らの助けを得ながらも、時に自制を保てなくなることに葛藤する金木。さらにグールの駆除を目的とする組織CCGの真戸や亜門が彼らのもとに迫る。もはや人として生きることが叶わぬ金木が選ぶ道とは?
(2017年 日本)

★ややネタバレを含みます★

【内容について……ゾンビものの一形態としては歓迎】
 原作未読、ほぼ予備知識なしでの鑑賞。
 ああなるほど、日本のゾンビもの(と言っていいだろう)も“ゾンビ側視点での葛藤”を描くところまで来ているのか、と感心する。
 主人公の金木だけでなく喫茶あんていくに集まる面々には、与えられた運命に対する不満、哀しみ、あがき、あるいはノンキを装ってやり過ごそうという心情が漂っていて、この空間、これまでゾンビものにはなかった装置として、なかなかに魅力的である。

 が、設定や展開には、無理とバカがギッシリ。
 グールの存在は人間社会において単なる都市伝説ではなく確固たる事実として受け入れられているはずだが、その割に危機感はゼロ(夜の街でフツーに遊び歩く人々、いっさい働かない制服警官、真剣味のない評論家)。読書家であるはずの金木もグールに関する知識は実に心もとない。グールはグールで人目につきそうなところでバンバン正体を曝す。なぜか戦闘服まで用意する。急に「お前、誰?」って連中が出てくる。

 圧死したはずのリゼの臓器に移植を妨げるだけの損傷がなく、いやそもそも人体とは構造や組成が違っていて解剖・検査時に「うわっ」てことになるんじゃないの、だいたいグールって病気になった時はどうしていたんだ、といった不思議。
 そうした医学的・科学的なエクスキューズも倫理もスルーして「責任は私が持つ」で移植しちゃう医者。

 いくらダークファンタジーとはいえリアリティをこれっぽっちも考えないのはどうなのよ、と思ってしまう。
 あと、どうやらこの世界ではノックせずにドアを開けることがお約束らしく、そこで偶然目にする事態からお話が動く。安い手法だ。

 そのあたりを我慢し、あるいは「今後さまざまな事件が起こり、いろいろな事実が明らかとなる物語の、その序章」と考えれば、まぁなんとか“収まり”を保った内容ではあるけれど、開始10分で投げ出したくなるレベルのアタマの悪さを感じてしまうのである。

【作りについて……役者の大半と空気感はいい】
 こういう役はもう窪田正孝の専売特許みたいなものだから、安定感はバッチリ。半分くらいは彼の芝居を観る映画。
 清水富美加は原作ファンには不評らしいが、美味しいキャラクターを律儀かつキレよく演じている(もちろんスタントの頑張りも大きいが)。
 桜田ひよりちゃんは可愛いし、白石隼也、柳俊太郎、小笠原海、相田翔子あたりは「上手い」とは言えないけれど、ひたすらダークな作品世界にいい意味での“軽さ”を与えることで、この映画に観やすさを付与している。

 白眉は蒼井優のアヤシサ。なんかこう、スイッチひとつ入れただけで全部持っていく、みたいな女優力を感じる。ちょっと浮いている大泉洋と鈴木伸之を補って余りある働きだ。

 全体にアンダーで透明感がなく、けれどだからこそ舞台や物語に漂う悲壮感が滲み出る唐沢悟の撮影が良質。ただしカットが微妙に長く、つながりにも問題あり=編集でかなり損をしている印象。

 音関係にはクセがありすぎ。セリフが、なぁんかアフレコっぽいというか浮いているというか戦隊ものや韓国ドラマっぽいというか。ちょっとモヤモヤしてしまう聴こえかた。
 いっぽうで音楽は『バウンド』などのドン・デイヴィス、サウンドデザインは『耳をすませば』などの浅梨なおこ、サウンドエフェクトは『メッセージ』などに携わったニコラス・ベッカーと、一流の現場で仕事をしていた人たちが、聴きごたえのある音世界を作り出している。

 話はそれるけれど、清水富美加は“トーカを演じるのが苦役”で、その結果として“心身の著しい不調”に陥り女優業を中断したとのこと。でも、どんな役であれ“演じることが苦役”と感じた時点でもう女優としては心身の不調だと思う。

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2017/11/20

カーズ/クロスロード

監督:ブライアン・フィー
声の出演:オーウェン・ウィルソン/クリステラ・アロンゾ/クリス・クーパー/ネイサン・フィリオン/ラリー・ザ・ケイブル・ガイ/アーミー・ハマー/トニー・シャルーブ/ボニー・ハント/ジョン・ラッツェンバーガー/グイド・クアローニ/リチャード・ペティ/トム・マグリオッチ/レイ・マグリオッチ/ハンフィ・フィーラー/ボブ・カトラス/ダレル・ウォルトリップ/ケリー・ワシントン/ボブ・ピーターソン/カイル・ペティ/アンヘル・オケンド/ルイス・ハミルトン/マーゴ・マーティンデイル/リー・デラリア/ポール・ニューマン
吹き替え:土田大/松岡茉優/有本欽隆/大川透/山口智充/藤森慎吾/パンツェッタ・ジローラモ/戸田恵子/立木文彦/デニーロ・デ・ジローラモ/岩崎ひろし/佐々木睦/加藤満/楠見尚己/赤坂泰彦/福澤朗/園崎未恵/内田直哉/あべそういち/丸山壮史/藤高智大/磯辺万沙子/定岡小百合/浦山迅

30点満点中19点=監4/話3/出4/芸4/技4

【あらすじ……未来は自分で決める!】
 天才レーサーとして輝かしい歴史を築いたライトニング・マックィーン。だが車体やトレーニングに最先端の科学を取り入れたジャクソン・ストームら新世代の台頭で成績は下降、焦りから大クラッシュを起こしてしまう。女性トレーナーのクルーズ・ラミレスのもと、再起を懸けて自らも最新のトレーニングを積むマックィーンに対し、新スポンサーのスモーキーは引退を勧告する。自身の未来を決するレースに向けて、カウントダウンが始まる。
(2017年 アメリカ アニメ)

★★★ややネタバレを含みます★★★

【内容について……健全な時の流れを感じる】
 伝説的な活躍を見せたアスリート、その全盛期を過ぎてからの苦闘、最後の瞬間、そしてセカンドキャリアを、僕らはいくつも見てきた。そこへ真っ向から切り込み、過度に美化することなく、けれどノスタルジィや精神論も散らしながら描くのが、本作。『ハスラー』とか『ロッキー』シリーズに連なるものといえるだろうか。

 正直、僕ら凡人にマックィーンのメンタルなどわかりようがない。俺様イズムを貫きつつも先達へのリスペクトを忘れず、ライバルたちとの激闘を心から楽しむなんて“選ばれし者”の特権だ。
 いっぽう、夢を抱きながら、いざという段になって「私は場違いだ」と怖気づくのがクルーズ。こちらのほうが親しみやすい心持ちだけれど、中身は無邪気さとコンプレックスが同居するラテン娘、やはり僕らとは程遠い。

 ただ、自分の時代に終わりが近づいていることを悟る哀しさなら凡人にだって馴染みがある。逆に「誰かに夢を託すのではなく、チャンスさえあれば自分自身が輝きたい」と考えている人だって多いだろう。
 心の中のそうした想いに、この映画はグサっと突き刺さってくる。本作の主ターゲット層であるキッズより、むしろ大人(というか初老)にこそ染みる作品かも知れない。

 この主役ふたりに、鼻持ちならないニューカマーや実利優先のビジネスマンやノー天気な親友や理知的な女性や豪快だけれど気のいいオバサンや枯れた爺さんが絡むストーリーは、なんというか、よく“走る”前作の入り組んだニギヤカさとは違い、エンディングへ向けて真っ直ぐ進む体裁によって、マックイーンとクルーズの疾走感ある生きざまが光り出す。

 そして(レースのルールに多少の無理はあるものの)上手く着地する。
 さびしさとともに未来への期待もあり、マックイーンのカラーリングにはウルっと来るし、またダイナコのテックス社長は「ひとつの文化を応援する富豪の、あるべき姿」を感じさせる。
 赤くてワガママな“元少年”から、黄色くて臆病な“少女”へ、つまり異質な存在の間でバトンが渡される、というのもポイント。速く走りたいという想いさえあれば、他のことなんてどうだっていい。それこそはスポーツ界における、健全な“つながり”。

 そう、今後もこの『カーズ』世界では、ベテラン、若手、競技者、それを支える者たちが一体となって、レースを繰り広げ、物語を連綿と紡いでいくだろう。そんな“健全な時の流れ”を観後感として抱くのだ。
 脚本は『カールじいさんの空飛ぶ家』のボブ・ピーターソン。世代を超えた意志のつながりを描くのが得意な人なのだろう。

 1stの正統な続編(だから最低でも1st『カーズ』は観ておいたほうがいい)としても、3部作の完結編としても、次回作があるならそこへの橋渡しとしても、上々。原題の『Cars3』より日本版タイトルがしっくりとハマる仕上がりである。

【作りについて……松岡茉優を俺にくれ】
 同時上映の短編『LOU』(監督は『カーズ2』などでアニメーターを務めたデイブ・マリンズ)があまりに素晴らしく動くので、もうそこでピクサーに対する安心感が脳内に充填される。

 もちろん本編も見事。凄まじいまでのテクスチュアの再現度といい、クルマの挙動(走行時に段差で少し揺れるのが心地よい)の細やかさといい、感心しきり。いっぽうで前輪やデフォルメされた目のアクションで心情を語らせるという擬人化の上手さもある。
 単に「CGで作ったモデルを動かす」だけにとどまらず、どうすればリアルに、どうすればユーモラスに見えるかまで考え抜かれているのだ。

 また今回は泥の表現に挑戦したとのことだが、実はその部分、いちいち記憶に残っていない。それだけナチュラルだったってこと。とにかく「フツーにクルマが動いて喋る」ことに違和感を抱かせない仕上り。

 美術がまた良くって、特に街並みや、レースコースからスタンドを見上げるアングルがたまらない。明らかに大スクリーン向け。各光景が自分よりも大きなサイズで目の前に広がることによって、この世界へと入り込むことができるのだから。
 スピード感の創出を担っているのが音響。担当は『モンスターズ・ユニバーシティ』のほか『スカイ・クロラ』などで日本でもお馴染みのトム・マイヤーズだ。

 ジャクソン・ストームはすぐに藤森慎吾だとわかったのに対し、クルーズは「たぶん純声優ではなく若手の女優さんだと思うんだけれど、それにしては上手いよなぁ」「声(の芝居)だけで惚れるわ」と思いながら観ていた。そしたら松岡茉優。本作いちばんの驚き。俺にくれ。

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2017/11/17

パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊

監督:ヨアヒム・ローニング/エスペン・サンドベリ
出演:ジョニー・デップ/ハビエル・バルデム/ジェフリー・ラッシュ/ブレントン・スウェイツ/カヤ・スコデラーリオ/ケヴィン・マクナリー/ゴルシフテ・ファラハニ/デヴィッド・ウェナム/スティーヴン・グレアム/オーランド・ブルーム/キーラ・ナイトレイ/ポール・マッカートニー

30点満点中18点=監4/話3/出3/芸4/技4

【あらすじ……呪いから逃れる槍はどこにある?】
 ヘンリーは呪いに囚われた父ウィルを救うため、天文学者カリーナは顔も知らない父の期待に応えるため、そしてバルボッサは海の支配者となるために“ポセイドンの槍”を追い求めていた。その在り処を知るためのカギは海賊ジャック・スパロウが持つ“北を指さないコンパス”。だが落ちぶれたジャックは酒欲しさにコンパスを手放し、そのせいでジャックに恨みを持つ海の死神サラザールが復活。敵味方入り乱れての大海戦が始まる!
(2017年 アメリカ)

【内容について……徹底したベクトル】
 上映時間は129分だけれど、たぶん、ぎゅっと詰めたら30分くらいの話。いや否定しているわけじゃなくて、むしろ歓迎。だって映画って“何を語るか”より“どう見せるか”が重要だから。

 その解法として徹頭徹尾「アトラクション的に楽しんでもらう」というベクトルで撮られている、このシリーズ。何がどうなるのかハラハラワクワクの連続。今回は金庫強奪とかギロチン処刑のシーンでそれが炸裂して大爆笑である。
 まぁそのぶん観ている側は疲れてしまって中盤あたりでお腹いっぱいになるし、ストーリーの流れがほとんど頭に残らない結果になるのだけれど。

 あと、エリザベスにアンジェリカにカリーナと、常に“理知的な女性(しかも美形)の強靭な意志と主張”が物語を動かしていくのもシリーズ共通の味わい。
 それと“体臭の濃そうなオジサマ(しかもオスカー級の役者)”の大暴れを見る楽しさもある。本作はサラザール=ハビエル・バルデムがその役を担うかと思わせておいて、「まさかあの人に泣かされるとは」というサプライズ。これも、どうすればお客さんに満足して帰ってもらえるかを考えたうえでのアイディアなのだろう。

 もうひとつ「徹底しているなぁ」とニヤニヤさせられるのがジャックのキャラクター。基本、ロクなことはしないよね。少なくとも役に立つことや感心できることは何もしない。無謀な計画を言い出すのに手下まかせで本人は酔って寝ているだけだし、後先考えずに宝を売り払うし、何回も何回も助けられるし、いざという時の第一選択肢は「逃げる」だし。
 でもオイシイところだけは持っていく。機転だけは利く。そして周囲を振り回して不幸のどん底に突き落とす。そりゃウィルだって「ジャックには関わるな!」と言いたくなります。

 これだけの大作かつ超人気シリーズなのに、脇役やゲストたちこそが各作品の中心にいて、主人公はコミックリーフ/トリックスター/狂言回しで感情移入なんかできず、でも憎めない、ってのも珍しい。ああだから『ジャック・スパロウ』がタイトルじゃなく『パイレーツ(複数形ね)・オブ・カリビアン』なのだな。

 と、ここまで書いてみて「たいしたこと言ってないな」と感じる。ま、そういう映画。ようやくこのシリーズの楽しみかたがわかってきたかも。要するに「たいしたことないから気楽に! アトラクションだから」なのだ。

 それから、最後の最後に続編を匂わせるオマケのお楽しみアリ。エンドロールが始まった途端に席を立つ人もいたけれど、それってもったいないし、いくら「気楽に!」とは言っても作品への敬意にも欠けていると思うよ(まぁ『ツマンねぇ』『オマケとか続編とかどーでもいい』と感じて早々に劇場を去りたいっていうなら別にいいけど)。

【作りについて……トータルな仕上がりが上々】
 ぎゅっと詰めたら30分とかアトラクション的とか述べたけれど、ストーリーのまとまりは過去作以上ではないだろうか(脚本は『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のジェフ・ナサンソン)。

 撮りかたもスケール感・迫力とわかりやすさが両立していて、宝石で覆われた島などのヴィジュアルイメージ、劇伴らしいサントラ、破綻のないVFX、スリリングなSFX(とにかくギロチンに尽きる)など、トータルな仕上がりは2~4作目より好印象かも知れない。
 ちなみにImdbでの点数(2017年7月現在)と自分の採点は以下の通りである。
 『1st』……8.0/18点
 『デッドマンズ・チェスト』……7.3/17点
 『ワールド・エンド』……7.1/18点
 『生命の泉』……6.7/17点
 『最後の海賊』……7.0/18点

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2017/11/13

ブレードランナー 2049

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ライアン・ゴズリング/ハリソン・フォード/アナ・デ・アルマス/ロビン・ライト/シルヴィア・フークス/マッケンジー・デイヴィス/カルラ・ユーリ/デイヴ・バウティスタ/バーカッド・アブディ/レニー・ジェームズ/ウッド・ハリス/デヴィッド・ダストマルチャン/トーマス・ラマケス/ヒアム・アッバス/エドワード・ジェームズ・オルモス/ショーン・ヤング/ジャレッド・レトー

30点満点中20点=監4/話4/出4/芸4/技4

【あらすじ……作られた者の行く先】
 ロス市警の捜査官(ブレードランナー)として旧型を“解任”する仕事にあたる新型レプリカント「K」ことKD6-3.7は、あるレプリカントに関する重大な秘密を知る。世界の秩序を崩壊させかねないとして上司から全証拠の破壊を指示されたものの、秘密のカギを握る存在が自分自身ではないかと動揺するK。またレプリカントを製造するウォレス社の社長ニアンダーもこの秘密に強い関心を寄せ、部下のラヴにKの追跡を命じるのだった。
(2017年 アメリカ/イギリス/ハンガリー/カナダ)

★★★ややネタバレを含みます★★★

【内容について……人とは何か】
 これほどまでに気負いのないパート2があっただろうか。映画史における『ブレードランナー』の位置づけを考えると、その続編を作ることには少なからぬプレッシャーを抱いて当然のはず。ところが、ヒットさせようとか、旧来のファンも新参も納得する作品にしますよとか、そういう熱や意気込みがまるで感じられない。
 ごく当たり前のものとして「続編です」と僕らの前に置かれるのだ。なんというか、「パーに勝つのはチョキ」「太陽は東から昇る」といった厳然たる事実と同じレベルで、これが『ブレードランナー』の続編であることに疑念を抱かせないのである。

 まぁリドリー・スコットが製作総指揮としてコントロールし、脚本が前作と同じハンプトン・ファンチャーで、そこに『LOGAN/ローガン』のマイケル・グリーンが加わって、ドゥニ・ヴィルヌーヴがメガホンを取るならば、それで妙なモノが出来上がるわけはないか。

 レプリカントを生化学的・工学的な側面からは一切説明せず「人の都合によって作られ、ただ消費され破壊されるニセモノの生命」として記号的に、あるいはこれもまた「当たり前のように」作品内に存在させていることが、本シリーズのポイント。
 だからまず、今作における最大のキー=レプリカントにまつわる重大な秘密には「えっ、そんなことが可能なの?」「レプリカントって、どう定義するべきなの?」と、上司マダムのごとく自然に驚いてしまう。

 そして、この重大な秘密によって「記号的な何かにすぎないレプリカントが運命論や自己の存在証明について苦悩する」という前作の流れ・テーマが今作にもスンナリ(ただし新しい意味合いとともに)引き継がれ、そんなレプリカントの苦悩を通じて別のものを語る本シリーズのありようも、新たな重みを持って持続することになる。

 前作の感想では「人とレプリカントを明確に分けるものなどない」と述べた。今作ではさらに人工知能のジョイも登場。レプリカントは少なくとも物理的には実在するが、AIはヴァーチャル、遥かに人間から遠い存在だ。そのジョイに“恋”という要素を背負わせたことで、人間とそれ以外との境界線はますますボヤケていく。

 また今作でネアンデル・ウォレスは「レイチェルとの出会いや彼女への愛情は誰かに仕組まれたものではないか?」とデッカードを揺さぶる。このあたりは『攻殻機動隊』シリーズにも通ずる“記憶や自律行動をめぐる問答”であり、やはり人間とそれ以外との境界線を考える際の重要なモチーフであり哲学でもある。

 次第に、『ブレードランナー』を観るという行為が「何をもって人とするのかを考える」ことと同義であるように思えてくる。前作鑑賞時に述べた通り「人とは何か、と考える。それがこの映画の意味であり価値であり本質」なのだと、より強く感じられるようになる。

 人間もレプリカントもAIも、思索する知恵と激しく起伏する感情を持っている点で等しい。少なくとも本シリーズではそう描かれているように見える。戸惑い、悩み、寂しがり、己が運命に割り切れない思いを抱きながら対峙し、悪あがきする。そして、人間らしく振る舞おうとする。

 どんな心情や行動を“人間らしい”と捉えるのかは人それぞれだろう。けれどふと考えてみると、本作の主要登場人物のうち一定以上の確度で人間といえるのは、上司マダム、ガフ、ウォレスくらい(デッカードについては後述)で、ところがこの人たちは悩んだりあがいたりせず、使命感や諦観や欲望に支配されていて、行動原理がわかりやすい。

 わかりやすいんだけれど、“人間らしい”とは思えない。組織と規律の中で思考が停滞した管理職、過去を振り返るだけの老人、自己顕示欲むき出しのマッド・サイエンティスト、と、この3人のほうがむしろ記号的で、彼らよりも、フレキシブルに自分の存在意義を変容させていくレプリカントたちに感情移入してしまう。

 ああ、そうか。「人間とは何か?」を考えるのではなく、いったん人間とかレプリカントとかAIといった枠を取り払って「人間らしさとは何か?」を考えさせているのか。
 そこで出てくるのがデッカードだ。

 デッカード=レプリカント説については「どっちでもいいじゃん」「曖昧なままのほうがいい」「彼の正体がどうであれ、この映画の意味も価値も本質もたいして変わらない」という立場なのだが、後押しするかのように、ヴィルヌーヴ監督自身「デッカードが人間なのかレプリカントなのか、プロット上は曖昧」と語っているらしい。ストーリーの整合性(または今作で明かされる重大な秘密)に照らして考えても、レイチェルがレプリカントならそれでOKであるわけだし。

 人間かレプリカントかは曖昧だとしても、デッカードの役割は明確だ。
 前作では「レプリカントか人かは関係なく、その歩みは求めあうことと殺しあうことであり、待つのは“死”だけ」の存在、ハードボイルドの主人公だった。一転して今作では「人間らしさとは何か?」を問う大きな物語(作中の出来事)の1パーツとして扱われている。“生のつながりにおける1構成要素”という役割を担わされているのだ。
 剛腕ともいえる劇作である。

 そして、デッカードの決意や悲哀や安息を見ていると、なんだか「生のつながりが人間の証左であるなら、かつ、お前自身も人間であろうとするなら、1パーツになることを厭うな」と説かれているような気になる。
 社会やシステムや歴史や物語の、単なる構成要素として生きることは、たぶん“人間らしい”とはいわないはず。けれど、ときにはそうすることが、人間として必要になるという皮肉。
 人とは何か、人間らしさとは何か、考えるためのトリガーとなっているデッカードは、やはりこの映画の主人公なのかも知れない。

 前作でロイは、汚れた雨に打たれながら俯いて息絶える。そこにあったのは(ロイという)個の絶望、あるいは、もっと安らかに人間らしくありたかったという祈りだ。
 いっぽう今作でKは、いやジョーは、舞い落ちる白い雪を見上げながら仰向けで眠りにつく。人間だろうがレプリカントだろうがAIだろうが、人間らしさを求めて行動する者たちの行く手には、見果てぬ空が、種としての希望が広がっているのだと示すかのように。

 となると、さらなる続編(たとえば『ブレードランナー2079』とか)を観たくなる(リドリー・スコットならやりかねない)。でも、きっとみんな口を揃えるんだろうな。
 「2つで十分ですよ」
 ま、それくらい鮮やかなデキである。

 追記。ジョイの起動音について。AIにサウンドロゴが用意されている、それだけでもう素晴らしくSF的だし、「本来は汎用型の製品なのにKとつながっていく」という展開を考えれば不可欠な演出でもある。感涙。
 そのサウンドロゴが『ピーターと狼』であることを分析するレビューはさすがに多くて、たとえば「人ではない者たちが奏でる物語の比喩」といった意見が見られるが、個人的には「万能を気取ってすべてを支配しようとする未熟者」と、映画の登場人物たちを嗤っているような気もする。

【作りについて……圧倒的】
 オープニングから前作のイメージを踏襲した作り。「タイレル社の資産を買収したウォレス社によって……」という文字の前置き~眼球のアップで、一気に『ブレードランナー』世界へと引き込む。

 ヴィジュアル・イメージは相変わらず圧倒的。
 前作ではシド・ミードやローレンス・G・ポールが作り出した「エキセントリックで猥雑な、希望のない世界としての近未来ディストピア」を、ジョーダン・クローネンウェスの「暗く、くすんで煙った、粒子感のある」撮影および「雨と夜という設定が、さらに退廃を増加させる」演出で唯一無二の世界を創出していた。

 今回はこれをブラッシュアップしつつ「この30年で環境の改善や再開発が進んだ地域と、より荒廃が進んだ地域に二極化した」というイメージを打ち出して、郊外の農場地帯、砂漠化したラスベガス、工場、廃棄物の山など舞台のヴァリエーションを広げてみせる。
 また、Kのアパートメント、LAPDのオフィスとラボ、老人ホーム、アナ・ステリン博士の無菌ドーム、心理テスト・ルームなど、前作にはなかった“照らされた屋内”が数多く登場。その無機質な明るさが、前作の暗さと対をなして、かえって続編っぽさを強めているように思える。
 フォークト=カンプフ・マシンの発展形、進化したスピナー(飛行車)、ホログラムAIなどガジェットも楽しい。

 今回のプロダクション・デザインはデニス・ガスナーで『トゥルーマン・ショー』の人。“デザインされた世界”を作った経験があるわけだ。
 撮影は『TIME/タイム』のロジャー・ディーキンス、衣装は『メッセージ』のレネー・エイプリル、メイクは『オデッセイ』のクシラ・ブレイク=ホルバスと、やはりSF大作の経験者が並ぶ。
 VFXは『アイアンマン』のジョン・ネルソン、『ザ・ウォーク』のヴィクトル・ミュラーなどで、なるほど浮遊感を作りたかったわけか。

 コンセプト・アーティスト/コンセプト・デザイナーとしてクレジットされている面々が過去に手掛けた仕事を調べると、『トロン:レガシー』『アバター』『ローグ・ワン』『クラウドアトラス』『タイタンの逆襲』『ファンタスティック・ビースト』『ダークナイト』など。
 ここではないどこかで、もがき、死んでいく者たちの物語、というイメージを、各所から集めた人材で磨き上げていったのだろう。
 続編への気負いがないように感じたけれど、徹底して共通認識のビルドアップに取り組んだことがうかがえる。

 農場の俯瞰、ウォレス社の受付の切り取りかた、パイプが走る工場、砂塵の中にたたずむ巨像など、幾何学的・アーティスティックに見せる画面レイアウトも面白い。でも、全編ただ奇をてらっているわけでもない。
 序盤、ビニールハウスの半透明の屋根の向こうに飛ぶスピナーが素晴らしい。わざわざ屋根越しなのだ。リアリティというより、もはやリアル。「ここから見上げたら、こういうふうに見える」を作り上げることでスピナーが現実のものとなる。このカットで早くも「あ、この映画は相当にヤバい。正真正銘ホンモノのSF映画だ」と確信したくらいだ。
 もともと“ぐぅんと方向転換して着地するスピナー”のように、面倒なのにわざわざ細かな描写を取り入れるのが『ブレードランナー』の真骨頂でもあるわけで、シリーズを通じてのマインドの一貫性も感じる。

 音楽の方向性も前作と同様だが、正直、ヴァンゲリスの壁は分厚過ぎたのだろうと思う。『ダンケルク』などの巨匠ハンス・ジマーや『それでも夜は明ける』などのベンジャミン・ウォルフィッシュをもってしても、かなりの難産だったようだ。

 演出のベクトルも「セリフは短いセンテンスで構成されるとともにギリギリまで削ぎ落とされていて、動き・流れ・出来事でストーリーをじっくり見せる作り」に徹していた前作を意識しているようだ。
 いや前作にもまして、楽しませようというテンポやリズム感をあえて殺しているとすらいえる(編集は『メッセージ』などのジョー・ウォーカー)。この「安っぽいエンターテインメントはいらない」という孤高の佇まいもまた『ブレードランナー』の本領だろう。

 ライアン・ゴズリングは、まぁもともと感情の起伏がわかりにくい顔立ちと芝居なのだけれど、そこから突如として悲しみや苦悩を顕にする瞬発力で Kを好演。ラヴ役のシルヴィア・フークス、ニアンダーのジャレッド・レトーも怪しさ全開で作品世界に馴染む。
 エドワード・ジェームズ・オルモス(ガフ)とショーン・ヤング(レイチェル)の登場はファンサービス的な意味合いもあるのだろうけれど、そんなヘラヘラした気分とは無縁なのがハリソン・フォード。もうね、デッカードがただのおっさんなんですよ。その様子が、今作におけるデッカードの役割や作品のテーマに直結しているようで、拍手を送りたい。

 で、アナ・デ・アルマスである。「人間らしさ」を表情と動きと発声と思考にミクロレベルで漂わせるAIを見事に演じ切る。ていうか可愛い欲しい。慌てて過去出演作のトレーラーをチェックしたんだけれど、本作のジョイがズバ抜けて可愛い。欲しい。
 ホログラムAIに心がざわつく。そういう現象を観る者(人間)の内面に呼び起こした時点で、この映画はもうまぎれもなく『ブレードランナー』なのである。

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2017/11/11

ディストピア パンドラの少女

監督:コーム・マッカーシー
出演:セニア・ナニュア/ジェマ・アータートン/パディ・コンシダイン/フィサヨ・アキナデ/ドミニク・ティッパー/アナマリア・マリンカ/アンソニー・ウェルシュ/グレン・クローズ

30点満点中19点=監3/話4/出4/芸4/技4

【あらすじ……その少女の役割とは】
 パンデミックが発生。人類の多くが脳を菌に蝕まれ、生き物の肉だけを欲する“ハングリーズ”と化す。軍の基地内ではパークス軍曹やコールドウェル博士、教師のジャスティノーらがある研究を進めていた。感染しながらも何故か思考力を失っていない子どもたちから、ワクチンを作れないか? だがその基地もハングリーズに襲われて壊滅。彼らは子どものひとりメラニーとともに、本部のあるロンドンへと向かう決死行に挑むのだった。
(2016年 イギリス/アメリカ)

★★★ネタバレを含みます★★★

【内容について……セカイ系ゾンビ映画】
 かつて「襲われる恐怖、追い詰められる恐怖、自分もゾンビ化してしまう恐怖、愛する人がゾンビ化する恐怖、誰が敵なのかわからない恐怖、極限状態に置かれることで信頼関係が破綻する恐怖……などを描くべし」と“ゾンビ映画のルール”を提唱したのだけれど、もう今は昔の話。

 初期のゾンビ映画では確かに、パーソナルな、または小さなコミュニティを舞台とした局地的状況と恐怖が主として描かれていた。が、いつしかグローバルかつ全人類的なゾンビ対応策が取り上げられるようになった。
 ゾンビ描写も走ったり飛んだり身体能力が強化されたりとバリエーションを増やし、『デイ・オブ・ザ・デッド』では知性を、『ゾンビーノ』では感情がゾンビたちに与えられて、『ウォーム・ボディーズ』ではついに人類とゾンビのラブロマンスにも挑戦。
 はじめは“ホラーの1カテゴリー”だったゾンビがコメディの空気をまとい、あるいは人間論・文明論・社会論(このあたりは初期のゾンビものにも内包されていたけど)を掘り下げて、いまや“映画の1カテゴリー”に。
 この50年間(とりわけ2002年からの15年間)で、ずいぶんとゾンビ映画も色合いを変えたもんだ。

 本作もそうした変化・進化の過程にある作品。人間がハングリーズ化する病理学的システム(ハリガネムシかよっ!)、ゾンビの知性化変貌、それにともなう言語や感情を介したゾンビとのコミュニケーション……といったユニークな要素(過去に提示されたアイディアのブラッシュアップやアレンジにすぎない、完全なる新機軸とまではいえない、とも考えられるが)が埋め込まれている。

 その中でも「未来の選択権をゾンビ側に、しかもひとりの少女に与えた」という点が本作最大のポイントか。
 つまりは、なんと、ゾンビ映画は“セカイ系”へと至ったわけだ。
 メラニーの選択は、やむを得ないとも、少女らしい刹那的な行為とも考えられるわけだが、いずれにせよ「一発で状況をリセットできる方法が用意され、実際にそれが行使されること」は、なかなかに衝撃的だ。

 そして、彼女の選択によってもたらされた結果と、彼女らの行く末、それらが意味するものもまた、かなり興味深い。

 自然史的/生物史的な観点でいえば、たとえばホモ・サピエンスの登場によってネアンデルタール人が滅びたように、進化と淘汰を経た生物が現在の地球で主流を占めている事実が物語るように、本作で描かれている出来事は当然の成り行きなのかも知れない。
 それに現代は、誰もが他者(多くは弱者)を食らって生き延びる、いわば精神的・社会的カニバリズムが蔓延している。その構成主体が僕ら人類からゾンビに置き換わったところで、なんの違いがあるだろう。
 ただし、弱者を食らう社会なんてやっぱり間違っていて、それを正す方策も必要だ。

 そうした“知”と、自分と同種の者たちだけでなく旧人類(というかジャスティノー先生)も守りたいという“感情”に基づいて、メラニーは決断し選択した。
 序盤の非人道的な授業シーンに比べてラストは実に微笑ましく、これはもう世界中どこにでもある光景。だからこそ「当然の成り行き」と感じる。でも同時に「以前と大きな違いはないけれど、未来への希望には満ちている」という印象も強くなる。

 これは新世代のゾンビが主役の、新世代のゾンビ映画である。

 追記として。
 星野之宣著『2001夜物語』内「共生惑星」を想起させる内容。『インターステラー』もそうだったけれど、星野之宣って尖ってるのだなぁと、あらためて実感。

 ここまで来たら今後どんな方向でゾンビ映画は撮られることになるだろうと考えていて思いついたこと。
 日本でゾンビ化現象が発生し、政府の対応が遅れて被害拡大&パニック増大。「死者に人権はあるか?」という国を二分する論争の中で自衛隊が駆除のため出動。そうした状況をリアリティたっぷりに描く『シン・ゾンビ』なんてどうだろう。さすがに怒られるか。

 この感想をまとめている最中に飛び込んできたジョージ・A・ロメロの訃報。こんなにイロイロと遊べる壮大な“ネタ”を人間社会に投下してくれたことには、感謝しかない。どうか安らかに。

【作りについて……ふたりの女優とサントラ】
 メラニーを演じたセニア・ナニュアが、可憐ではないが“いい子”で、けれど何か大きな狂気(または凶気)も持ち、そして瑞々しい。彼女の存在感が本作の大きな魅力のひとつ。

 あとはジェマ・アータートン。『慰めの報酬』ではいかにもキャリア・ウーマンっぽく、『タイタンの戦い』では神話の世界の美女を務めあげ、『プリンス・オブ・ペルシャ』ではツンデレ王女。『アリス・クリードの失踪』は鮮烈だったけれど、それでも「何度観ても顔と名前が一致しない」のは相変わらず。
 好みのタイプなのに印象に残りにくいのは、それだけ役柄にハマりまくって“素のジェマ”を見せないせいだろう。本作でも「誰だっけ?」状態。ただ、たっぷりとした体型と柔らかなインテリジェンスで、教師っぽさと母性を発散させている。今回こそ記憶に刻みつけよう(たぶん無理)。

 監督は『SHERLOCK』などに携わった人で、スタッフは全体にアシスタント級。基地襲撃シーンや荒廃したロンドンの俯瞰など画面作りで頑張っている場面も多いが、小ぢんまりとしたTVサイズの仕上がりだ。そのぶん作品内の出来事が近く感じられるので、これで正解か。美術と編集のおかげで全編に漂う荒廃と終末の空気感も素晴らしい。

 音楽はカナダで活躍するクリストバル・タピア・デ・ヴィーア。エレクトロ・ダンス・ミュージークやPOPSでキャリアを積んだ後、サウンドトラックでも急速に注目度を上げている人物らしい。咆哮や呪詛を思わせる音楽が脳髄に突き刺さる。

●ゾンビ関連映画(年代順)
ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド(1968)
ゾンビ/ディレクターズカット完全版(1978)
28日後...(2002)
『バイオハザード』シリーズ(2002~)
アンデッド(2003)
ハウス・オブ・ザ・デッド(2003)
ショーン・オブ・ザ・デッド(2004)
ドーン・オブ・ザ・デッド(2004)
DOOM(2005)
ランド・オブ・ザ・デッド(2005)
ゾンビーノ(2006)
28週後...(2007)
プラネット・テラー in グラインドハウス(2007)
アイ・アム・レジェンド(2007)
ダイアリー・オブ・ザ・デッド(2008)
デイ・オブ・ザ・デッド(2008)
サバイバル・オブ・ザ・デッド(2009)
ゾンビランド(2009)
クレイジーズ(2010)
夜明けのゾンビ(2011)
ゾンビ革命 -フアン・オブ・ザ・デッド-(2011)
ロンドンゾンビ紀行(2012)
ウォーム・ボディーズ(2013)
ワールド・ウォーZ(2013)
ディストピア パンドラの少女(2016)
新感染 ファイナル・エクスプレス(2016)
東京喰種 トーキョーグール(2017)

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2017/11/06

ライフ

監督:ダニエル・エスピノーサ
出演:ジェイク・ギレンホール/レベッカ・ファーガソン/ライアン・レイノルズ/真田広之/アリヨン・バカレ/オルガ・ディホヴィチナヤ/森尚子

30点満点中18点=監4/話3/出3/芸4/技4

【あらすじ……その新生命は人類を脅かす】
 トラブルに見舞われながらも帰還した火星探査機を、かろうじて回収した国際宇宙ステーション(ISS)のクルーたち。彼ら6名は探査機が持ち帰った土壌サンプルの中に微生物を発見する。カルビンと名づけられたその微生物は、当初は原始的な単細胞生物に思われたのだが、やがて高度な知性を示すようになる。急速なスピードで成長を続けるカルビン。ISSを、そして地球上の人類を脅かす、恐るべき事態が始まろうとしていた……。
(2017年 アメリカ)

【内容について……これは警告なのだ】
 いやあ、それにしても怖いもの知らずの映画だ。
 なにしろ『エイリアン』と『アビス』と『ゼロ・グラビティ』をゴチャ混ぜにしたんだもの。あと『トレマーズ』っぽいところや『シン・ゴジラ』を思わせる部分もあるし、触手趣味もフリカケてっと。詳しく調べればまだまだ盛り込まれた“映画ファンにはお馴染みのアレ”はありそうだ。

 つまりは「どっかで見たぞ」的であり、しかも荒唐無稽な物語でB級どころかC級と断じられても不思議じゃない中身なんだけれど、ちゃんと演出して、一流どころの役者(驚くほど豪華で、もったいない使い方)とスタッフを揃えて、使うべきところにリソースを注ぎ込めば、それなりに面白く仕上がるのだな。
 また、多国籍のクルー(それぞれが何かの専門家)が協同で生活・研究を進めるISSの存在が現実社会に定着している、ってのも大きい。その事実によって、ちょっぴりだけどリアリティが増強されているわけだから(まぁISSの中で何かを燃やそうとしている時点でアレだが)。

 それと、あくまで“閉鎖空間ノンストップ・サスペンス”として、深く考えずハラハラドキドキを楽しむ映画ではあるものの、ちょっとした警告も込められているのだと思う。
 想定外は必ず起こる。そのキッカケは、たいていヒューマン・エラー。そして、究極のサバイバル・シチュエーションにおいては、ヒロイズムも自己犠牲の精神も、何の役にも立たない。
 数々の厄災を毎年のように経験し続けていて、すぐにまた次の大きな厄災が来ることも予見されていて、それでもどこか「遠い出来事」として捉えて対策を怠っているわれわれ日本人が、なにより心に刻まなければならない警告が、ここにはあるのだ(いや、そんな大層なモノじゃなく、やはりあくまでも娯楽作なんだけれど)。

【作りについて……監督・脚本家の得意技発揮】
 監督は『デンジャラス・ラン』の人。あちらは「説明を省略して一気にアクションで見せる部分と、必要最低限の説明をバランスよく配置し、軽快かつスリリングな流れを生み出している」作品だったけれど、本作も同様。得意なスタイルを遺憾なく発揮している印象だ。

 脚本のレット・リースとポール・ワーニックは『ゾンビランド』のコンビで、なるほど、過去に作られた同テーマの映画を研究・分解・再構築する手腕に長けているらしい。バカバカしさとリアリティとをミックスしながら先の読めない展開を作り出して、こっそり重要なメッセージを混ぜ込む技も持ち味。こちらも面目躍如の仕事ぶりだ。

 多彩なサイズ、解像度の高さ、スピード感と浮遊感で一気に見せる撮影は『ザ・コンサルタント』のシーマス・マッガーヴェイ。本当にISSに乗り込んだような気分にさせる美術ナイジェル・フェルプスとSFXデイヴィッド・ワトキンスは『ワールド・ウォーZ』の面々。VFXは『ハリポタ』シリーズのジョン・モファットや『ゴースト・イン・ザ・シェル』のダグ・スピラトロ、スタントは『ゼロ・グラビティ』のマーク・ヘンソン。このあたりの仕事も素晴らしい。

 とりわけ冒頭部、人とカメラを自在に動かして、観る者をISSの中に誘う1カット長回しが上々。「ただ物語をダラダラ撮ってるだけじゃありませんよ」という意思表示から始めるこういう作品を、歓迎したい。

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2017/09/26

ハクソー・リッジ

監督:メル・ギブソン
出演:アンドリュー・ガーフィールド/サム・ワーシントン/ヴィンス・ヴォーン/ルーク・ブレイシー/フィラス・ディラーニ/マイケル・シェースビー/ルーク・ペグラー/ベン・ミンゲイ/ニコ・コルテス/ゴラン・D・クルート/ハリー・グリーンウッド/デミアン・トムリンソン/ベン・オトゥール/リチャード・ロクスバーグ/バート・モーガン/デニス・クルーザー/ビル・ヤング/ライアン・コア/テリーサ・パーマー/ヒューゴ・ウィーヴィング/レイチェル・グリフィス/ナサニエル・ブゾリック/ダーシー・ブライス/ローマン・ゲレーロ

30点満点中18点=監3/話3/出4/芸4/技4

【あらすじ……人を殺さない兵士】
 キリスト教の教え「汝、殺すなかれ」を胸に刻む青年デズモンド・ドス。彼は暴力を嫌う良心的兵役拒否者であり、また看護師のドロシーと婚約もしていたが、衛生兵になるべく陸軍入隊を志願する。厳しい訓練中も信念を貫いて銃を持とうとしないドス。そんな彼への風当たりは強く、命令拒否を理由に軍法会議にもかけられるのだが、その主張は認められ、ドスは仲間とともに沖縄の激戦地“ハクソー・リッジ”へと赴くのだった。
(2016年 オーストラリア/アメリカ)

【内容について……信念を貫く姿こそ】
 鑑賞中も鑑賞後しばらくも頭にあったのは「これ、美談ではないよな」ということ。みずから殺し合いの場へと身を投じるドスの存在は、たとえ何人何十人救おうが偽善と自己満足の塊ではないのか、とも思えるのだ。

 制作サイドの意識の中にも「そもそも戦争は許されざるおこない、愚かな行為、忌避すべきもの」という価値観が、あったように感じる。
 たとえば「何を信じていようと戦場では関係ない」「戦時では親が子を弔う」といったセリフが用意されている。相手を全滅または降参させるために銃と爆薬を持って突進する、という、どちらにとっても戦争は強烈な無理ゲーであることが示される。その中で米兵も日本兵も等しく死ぬことが描かれる。
 戦争が、とてつもなくバカバカしいものとして印象づけられるのだ。

 デズモンド・ドス氏自身も「英雄扱いされることを嫌ってなかなか映画化に応じなかった」とのことだから、同じ想いを抱えていたのではないか。

 けれど一歩だけ立ち位置を引いて考えると、ドスは“見習うべき対象”にも思えてくる。
 ただでさえ「信念を貫き、自分にできることを全力でやり通す」のは困難だ。けれど彼は、それを、極限状況下でやり切った。
 もちろん、ドスが勲章を授与された理由としては、そこが戦場であることや多くの兵士の命を救ったという結果・事実も大きかったのだろう。だが、この「信念を貫き、自分にできることを全力でやり通す」ことへの賛辞が、勲章と、そして本作の底辺に流れているように思う。

 だから当然、本作を観た人が心に刻まなければならないのは「きっかけや状況の是非がどうであれ、人を救う姿は尊い」なんてことではない。
 戦争を生み出す原因(たとえば憎しみとか相互理解の拒否)や、人と人とが殺し合う状況を、生み出してはいけない、という信念のもとに、自分ができることをやり通す。そんな決意であるはずだ。

【作りについて……実直な撮りかた】
 評判になっている戦場の描写は、さすがに激烈。『フルメタル・ジャケット』『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』、『プライベート・ライアン』~『ザ・パシフィック』、『ブラックホーク・ダウン』に『フューリー』といったあたりと伍する仕上がりだ。
 この点では、スタントのカイル・ガーディナーとSFXのダン・オリヴァー『ウルヴァリン』、VFXのクリス・ゴッドフリー『ステルス』らを大いに讃えたい。

 また凄惨な戦場を再現した美術バリー・ロビンソン『遠い空の向こうに』、音響ロバート・マッケンジー『LION』やアンディ・ライト『キラー・エリート』、それらを適確に捉えた撮影サイモン・ダガンと編集ジョン・ギルバート『キラー・エリート』などの仕事も一級品だ。

 ただ、昨今の多くの戦争映画における戦場描写が「現場に居合わせる」というベクトルで作られているのに対し、本作には「画面の中に収める」という方向性を強く感じる。アイディアを練り、アクションと特殊効果の段取りを徹底的に積み上げ、それらをきっちりと完遂&しっかりと撮る、というイメージ。
 これは映画の前半部でさらに顕著で、意外とフレーミングやサイズのヴァリエーションが乏しく、「ここからここまでの範囲で、こういう芝居をしてください。こっちから撮ります」というディレクションが感じられる。

 もっとも、それが観やすさ・わかりやすさにつながっているのも事実。クレジットを見るとプロデューサーがやたらと多く、全員を納得させるのはさぞ難しかったと思うのだが、それをメル・ギブソンが、実直すぎるくらい実直に「観やすく、わかりやすく」撮ったことで、この映画は仕上げられたのではないか、と思う。

 アンドリュー・ガーフィールドは精悍さや理知的な雰囲気を抑え、ただただ一途に自分の信念を貫くドスを、役者として完遂する。
 ハウエル軍曹役のヴィンス・ヴォーンとグローヴァー大尉を演じたサム・ワーシントンが、やたらカッコイイ。とりわけヴィンス・ヴォーンが、ほんのちょっとした表情の揺らぎや目の輝きだけで単純な鬼軍曹ではないことを匂わせていて、この人こういう芝居ができるんだと発見。

 あとはドロシー役のテリーサ・パーマー。『アイ・アム・ナンバー4』とか『ウォーム・ボディーズ』とか、出演作を何本か観ているのに、自分の感想を読み返しても「可愛い」という記述がない。でも今回、可愛い。「ちょっと昔の女性」という役がハマる俳優なのかも知れない。

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2017/09/20

怪物はささやく

監督:J・A・バヨナ
出演:ルイス・マクドゥーガル/フェリシティ・ジョーンズ/トビー・ケベル/ベン・ムーア/ジェームス・メルヴィル/ジェニファー・リム/ジェラルディン・チャップリン/シガーニー・ウィーヴァー/リーアム・ニーソン(声の出演)

30点満点中17点=監3/話2/出4/芸4/技4

【あらすじ……僕が語らなければならない真実】
 中学生のコナー。難病を抱える母には死期が間近に迫っている。母と離婚した父には新しい家族ができたようだ。心配してたびたびやってくる祖母は口やかましい。そして学校ではイジメのターゲット。寂しい日々を送る彼の前に、毎夜12時07分、大木の姿をした怪物が現われるようになる。「これから3つの物語を話す。4つ目の物語はお前が話せ。お前の真実を」。そういって怪物は、コナーには理解しがたいストーリーを語り始める。
(2016年 イギリス/スペイン/アメリカ)

【内容について……自分と向き合う、ということ】
 近しい人や愛する人の死にあたって、僕らが向き合わなければならないのは、その“死”だけではない。“死と直面する自分自身”とも対峙する必要に迫られるわけだ。

 で、そんな「身近な人の死に直面した自分自身を見つめること」を強いてくる怪物の正体は、といえば、母親からコナーへと注がれた“想い”ということになるのだろう。
 その想いは、苦しくて切なくて、そして優しい。「人は誰でも死ぬ」という絶対的な真実や、その真実を知ったときにはたいてい手遅れだという身もフタもない事実、そしてそれでも生きている人は生き続けなきゃいけないという現実を教えるとともに、そういった悲しみを乗り越えるためのキッカケをも与えてくれる。

 ひょっとすると、喪失感や自己への卑下を、なんとか心の中に押しとどめたままこの先も生き続けるためには、苦しさと切なさをグリグリと突きつけてくる怪物と、どうしたって対決しなくちゃいけないのかも知れない。

 と、豊かなメッセージ性や教訓を含むファンタジーとしてよく出来ているのは確かだけれど、すでに『パンズ・ラビリンス』『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』『かいじゅうたちのいるところ』などを観た身なので、評価としては「そこそこいい」程度にとどまってしまう。

【作りについて……イメージ通りの仕上がり】
 きめ細やかな撮影(オスカル・ファウラ)や美術(エウヘニオ・カバイェーロ)、重厚に各場面を彩る音楽(フェルナンド・ベラスケス)などは、監督の過去作『永遠のこどもたち』や『インポッシブル』と共通のスタッフ。それだけに手堅く、監督の抱くイメージを忠実にフィルムへと昇華していることが感じられる。

 アニメーション・パートが極上。絵本的・水彩画的・影絵的なキャラクターたちが命あるもののごとく動く。この絵本があれば、ぜひ欲しい。

 主演のルイス・マクドゥーガル君は、与えられた役を懸命に演じ切る。祖母のシガーニー・ウィーヴァーも生真面目に好演している。
 母親役フェリシティ・ジョーンズは、デス・スターの中で銃をブっ放していたのと同一人物とは思えぬほどの弱りよう。このあたりはスペシャルメイク(ルト・フルガド)や、ヘアメイク(『サッチャー 鉄の女の涙』のマリーズ・ランガン)の貢献度も大きい。

 リーアム・ニーソンが怪物の声およびモーション・キャプチャーを担当。怪物に一定の重みや凄み、ただ恐怖だけではなく畏敬を抱かせる奥深さなどを付与しているのは確かだ。が、どうしても彼が過去に演じた類型のキャラクター、クワイ=ガン・ジンラーズ・アル・グールアスランゼウスといった“導く者”が後ろにチラついてしまうのが難。

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