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2004/09/30

バトル・ロワイアル 特別編

監督:深作欣二
出演:藤原竜也/前田亜季/ビートたけし/山本太郎
30点満点中13点=監3/話2/出3/芸3/技2

【これから皆さんに殺し合いをしてもらいます】
 少年犯罪が多発する日本で採択されたのは、全国の中学校から無作為に1クラスを選び、生存者1名になるまで互いに殺し合いをさせるという凶悪なルール、BR法。七原秋也、中川典子、三村信史、相馬光子ら今回のクラスも、武器と地図とを渡され、孤島に投げ出される。文字通り生死を賭けたサバイバルの開始だ。共闘、逃避、パニック、疑心暗鬼……。幼いアイデンティティが、不条理な悲劇を加速させていく。
(2001年/日本)

【状況の残虐性を描くことが必要だったのでは?】
 さまざまな“自由”の中で最も尊ばれるべきは「選択の自由」ではないだろうか。村上龍の『13歳のハローワーク』が当たったのも、世の中にどんな職業が存在するかを示し、必要な素養や「いまやるべきこと」を提示して、未来へ向けての多くの選択肢を示したからにほかならない。
 歴史上、中学生や高校生に十分な選択肢が与えられた例はない。すべてのカリキュラムでは「大人から見て、子どもたちに習得させるのが望ましい事柄」が押し付けられる。せめて『アイコ十六歳』の作者・堀田あけみがいう「微分・積分など実生活に役立たない授業でも、『そういうモノの考えかたがあるんだ』と目を開かせてくれたという意味で、存在意義があった」という達観を持ち得たなら。

 本作では、15歳の登場人物たちに一切の自由は与えられない。目前に迫る死に対して、達観など抱きようもない。キリキリとみぞおちが痛むほどの不条理に追い込まれる。
 その“状況”こそ原作が支持された理由ではないだろうか。単に血しぶきの残虐性だけが人のマゾヒスティックな部分を刺激して愉しませるわけではない。尊重されるべきは選択の自由、忌むべきは限定と押し付けと束縛とするなら、ここで描かれる選択の自由はないという“状況”こそが最大の残虐であって、だからこそ腹も痛むのだ。大人たちが原作を攻撃するのも、中学生が殺し合いをするからではなく、実は「僕たちも束縛されている。なんて残虐なんだ」と気づく恐れがあるからではないだろうか。
 それでも救いは、何人かの登場人物が懸命に抗おうとし、やるべきことを全うしようとすることだ。その点では健全ともいえ、ともすれば「モノゴトを全うする責任なんて負う必要はない」とも取れる『エヴァンゲリオン』などのほうが、よほど教育に悪い。

 不条理状況下のキリキリ感を増大させるため、原作では、自分を正義の使者と思い込んでいるコとか、密かに思いを寄せる女子に一途な男の子とか、一種の同時代性というか、そこ(昭和後期~平成の中学生)を通過しないと共感し得ない心の持ちよう、人の“いろいろ性”が盛り込まれている点があげられる。これがあって、彼ら彼女らの思いが断ち切られることになるからこそ、この小説はエンターテインメントとして、青春小説としても、まぁまぁ良く出来たものとして成立している。
 このあたりを描き切れていないのが、映画での決定的な弱点だ。尺の関係で主人公・七原あたりに話を絞らなければならないのはわかるが、それすら描き切れていない。どうしたって、この時代よりも上の大人の目線から見たキャラクターになってしまっている。無理やり「殺し合いに身を置く子どもたちと、そこで行き交う心情」に意味を持たせようとしている。やはり「大人から見た望ましい中学生像」から脱却し切れていないのだ。好んで殺し合いに参加する、という存在はアリだと思うが、そうした“いろいろ性”があってはじめて、残虐性が際立つのではなかったか。

 画面の作りも、東映の特撮ヒーローものっぽい感じ。自由の破壊という残虐性より血しぶきの残虐性を重視したわりに、どことなく幼稚で健全さすら漂う。もっと破綻してもよかっただろう。また教室のシーンでの、まるで舞台のような人の動き、カメラの動きも、そこでの出来事が空虚な作り事に思えてしまってマイナスだ。
 まとめれば、前田亜季に萌える映画である。

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