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2004/10/15

サイダーハウス・ルール

監督:ラッセ・ハルストレム
出演:トビー・マグワイア/シャーリーズ・セロン/マイケル・ケイン
30点満点中22点=監5/話4/出4/芸5/技4

【孤児ホーマーの、自分探しの物語】
 孤児院で生まれ育ち、外の世界を知らないホーマー。ラーチ医師の助手として堕胎手術の腕だけは上がっていくが、そんな自分に疑問を持ち始めていた。孤児院を出る決意を固めたホーマーは、中絶のため院を訪れたウォリーとキャンディの誘いで、ウォリーの親が経営するリンゴ農園で働くようになる。さまざまな人との出会い、キャンディへの恋心、そして、人と人との関わりや生命の尊さに触れ、ホーマーは成長していく。
(1999年/アメリカ)

【何を切り取るかに特化した、鮮やかな構成】
 どうということのない話である。
 生まれ育った孤児院という狭い環境しか知らない青年が、外界に出て、さまざまな人と触れ合うことで「自分が何者であるか」を考え、社会の中での自分の立ち位置は何処かを見つけていく。ありがちなビルドゥンクス・ロマンといってしまってもいいくらいだ。
 だから、何を描くか、何を語るかといったテーマ性については、あからさまなくらいであって、論ずる必要などない。むしろこの映画は、どう描くか、いや、何を映すか、主人公ホーマーが歩んだ十数年(おもに後半の数年)という大きなストーリーの、どの部分を切り取って見せるかに主眼を置いて作られたものである。

 ホーマーがなぜ孤児院を出たいと思ったのか、医師(の助手)としての腕前はどの程度なのか、キャンディとの結びつきはどれほどの強さだったのか……などは、重要であるにも関わらず“切り取って見せられていない部分”に含まれる。これは本来なら許されないことだ。
 が、たとえば、ラーチ先生が証明書を偽造してまで「医師ホーマー」に執着する様子、農場の労働者たちがヒョイと手を上げて挨拶する姿、海辺や林の中のホーマーとキャンディ、そして宿泊所に張られた“サイダーハウス・ルール”と、それを「俺たちが決めたルールじゃない」と一蹴するローズといった、切り取られたいろいろが、それ以外の切り取られていない部分を想像する糧となってくれる。シーンとシーンの間の、映し出されていない部分をイメージする映画、といったところだろうか。
 DVDの特典である“カットされたシーン”からも、この映画がまさに「多くの出来事の中の、切り取られた部分だけで構成された作品」であることがよくわかる。

 だから、一編のドラマを観るというより、ホーマーの生活や成長の記録・断片を観るという意味合いの強い映画だ。そこからホーマーの心を読み取ってもらったり、あるいは観た人にさまざまなことを考えてもらおうというのが、この映画の役割であり、試みでもある。
 そしてそれは、見事に成功した。声高にテーマを叫ぶのではなく、淡々と日常と事件とを描くことで、本作はみずみずしさにあふれたグラフィティとなって結実している。
 序盤、ラーチ先生の一人称でストーリーが始まり、やがてホーマーを中心とした三人称的になるという視点の定まらない部分には不満が残るが、季節感に気を遣いつつ、優しさをたたえた音楽に画面を彩らせ、孤児院に暮らす多くの子どもたちにもそれぞれの生涯があるのだと思わせるいくつかのエピソードや、ホーマーとその周辺の心の動きなどを、奇を衒うことなく誠実に映し出していることに好感を覚える。

 説教やアドバイスや人生相談よりもはるかに強く、社会における自分の役目など、多くのことを考えるキッカケを与えてくれる映画といえるだろう。が、それよりも“切り取って見せる”という方法論に感動を覚えた。長い原作を、作者ジョン・アーヴィング自ら脚色したということも寄与したのだろうが、実に新鮮な驚きだった。

 いま思いついたけれど『キャンディ・キャンディ』が好きな人なら、ぜひ観るべき映画(ホントか……と思ったら、同様のことを考えている人は多いようだ。サイダーハウス・ルール+キャンディ・キャンディで、結構な数のサイトがヒットする)。

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