イン・アメリカ/三つの小さな願いごと
監督:ジム・シェリダン
出演:サマンサ・モートン/パディ・コンシダイン/ジャイモン・フンスー
30点満点中17点=監4/話3/出4/芸3/技3
【アメリカ、そこは“何か”が起こる国】
息子の死を引きずるジョニーとサラは、クリスティとアリエル、幼い娘ふたりとともに故郷アイルランドを離れアメリカへと渡る。夢と希望にあふれているはずのこの国この街で、しかし、家族は癒されぬまま貧しい時を過ごす。投げやりで未来のない日々にも思えたが、同じ安アパートに世を厭うように暮らす、難病を抱えた画家マテオとの出会い、そして新しい生命の芽生えを通じて、一家は前へと歩き出す糧を得ていく。
(2002年/アメリカ)
【想像力によって方向が決められる映画】
何らかの大きく悲しい事件に直面したとき、人は、戦ったり抗ったり、守ったり逃げたり、あるいは捨て鉢になったりするけれど、「誰にも気づかれず耐える」という生きようがあることを教えてくれる。“再生”をテーマとする映画は数多いが、どれだけ観てもいいものだし、好きなタイプの映画でもある。
淡々と、瑞々しく描かれる日常。冒頭、クルマの中でアリエルがアメリカの夜を見上げるところから、ラストのベランダのシーンまで、一貫した叙情性で涙を誘う。ボロボロの安アパートの臨場感、そこに暮らす人(金をせびったり、羽振りのいいときには彼らなりの思いやりを持ってささやかなプレゼントを用意したり)たちも、やや類型的であるものの存在感はまずまず出ている。
特筆すべきは2人の子役。驚くほど素晴らしい。こういうコたちやダコタ・ファニングの存在を見ると、アメリカには「映画」「役者」という遺伝子が息づいているのだなぁと感心してしまう。
死んでしまった男の子の病床での悲しげな表情や、雪に遊ぶアリエル、マテオの姿など、クリスティが持つビデオカメラで撮られた映像の挿入も効果的で、人にとっての最高の宝物は記憶だけれど、思い出に囚われたままでは前へ進むことはできないということを物語る。特に印象的だったのが学芸会(だろう)で『デスペラード』を歌うクリスティ。「雨かも知れない。でも君の頭上に虹がかかる」。彼の地にいる際に蓮池薫氏が心に浮かべ、生きる支えにしたという歌である。
ただ、克服・再生へ向けての、自虐的ではあるけれど誠実さを秘めた生き方を語りたいのか、ファンタジー色を出したいのか、立脚点がどっちつかずで、結果として手放しで「好き」といえないものになっている。マテオの行動があまりに都合がいいことも(たとえ実際に起こったことだとしても)シラケた印象を与える。
映画としての“何か”が足りないのかも知れない。ごく簡単にいえば、インパクト。後々まで心に刻み込まれて「ああ、『イン・アメリカ』といったら○○だよねぇ」と思い浮かぶような、何かだ。
ビデオカメラやE.T.のぬいぐるみなどにその気配は感じるのだが、作品を象徴するほどの機能を果たしていないように思える。
もっともその役割を果たすべき存在は、クリスティの祈りによって叶えられる“3つの願い事”だろう。とてつもなくどうでもいいことが願いとして叶えられるのか、それとも人生における大きなターニングポイントとして作用するのか、あるいは、どうでもいいと思えて実は重要な意味を持つ出来事へと発展するのか、そのあたりをハッキリと描くことで、この作品の方向性を決められたはずだ。
不足や方向性の欠如を補うのは、ひょっとすると想像力なのかも知れない。この物語の隣のアパートで繰り広げられているのは『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督)の物語と考えるのか、『ニューヨーク東8番街の奇跡』(マシュー・ロビンス監督)と考えるのか、それによって本作の意味も変わってくるように思える。
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