10億分の1の男
監督:フアン・カルロス・フレスナディージョ
出演:レオナルド・スバラグリア/ユウセビオ・ポンセラ/マックス・フォン・シドー
30点満点中14点=監2/話2/出3/芸3/技4
【最強の“運”で未来を切り開け】
ホロコーストを生き延びた男サムは、自らの強運と、他人に触れることでその者の運を吸い取るという能力を武器に、大カジノのオーナーとして君臨していた。その片腕フェデリコも同様の力を持っていたが、サムからの自立を疎まれて能力を奪われてしまう。復讐を誓うフェデリコは、飛行機事故から生還した豪運の持ち主トマスに目をつけ、サムへ差し向けようとする。最強の運の持ち主を決める戦い(ゲーム)が始まる。
(2003年/スペイン)
【設定は抜群だが、ストーリーと演出がそれを生かし切れていない】
運のやりとりという設定は、実に面白い。全体にダークな色調でまとめた画面作りと落ち着いたテンポも、このテーマにふさわしい怪しげな雰囲気を醸し出している。意外なところに出てるなぁと思わせるマックス・フォン・シドーをはじめ、役者もそれぞれに味がある。
ただ、肝心の緊迫感が足りない。いや、高速道路を全力で横切ったり、目隠しをしたまま森を走り抜けたりなど、運を試されるゲームは繰り返されるのだが、それぞれの成功が、単なる偶然なのか、それとも強運ゆえなのか、いまひとつ伝わってこない。偶然と強運との違いをハッキリと、かつサスペンスフルに示す工夫を取り入れるべきだったろう。
ところが、サムに対するフェデリコの復讐というストーリーを追う(語る)ことや、訳もわからぬまま強運ゲームに誘い込まれるトマスの焦燥感を描くことで手一杯になって、「ああ強運とはこういうことをいうんだ」と絵や演出で納得させる工夫があまりないのだ。
それは、この映画では致命的な欠点といえる。オープニングのカジノの場面、バカヅキしている客にフェデリコが触れると途端にツキが落ちるといった「運のやりとり」につながる描写がもっとあれば、と感じる。
キャラクター設定と人間関係を整理すれば、人間の運をコントロールすることで“神”であろうとするサム、彼に運を奪われて復讐を誓うフェデリコ、フェデリコに見出されて対サムの最終兵器として試練を課されるトマス、トマスのライバルともいうべき「生涯ケガをしなかった闘牛士」のアレハンドロ……などとなるのだが、そうした位置づけが有機的に関わり合わないのもマイナス点。
誰が誰よりも強運なのか、どれほどの危機的状況から奇跡的な生還を果たせばサムと渡り合えるだけの強運の持ち主として認められるのかといった力関係や、なぜ命を賭してまで運のやりとりへと挑むのかといった動機づけをしっかりと描写・説明してほしかった。
そうした細かな部分を丹念に描き、この世界がすべて“運”という不確かなもので支配され左右されていることを観客に理解してもらい、そのうえで、目に見える運とは別の次元で人の命が左右されてしまうオチへと至れば、もっと皮肉なエンディングとなったことだろう。
ハリウッドが力を入れてリメイクしたら、このダークさは消えても、ダイナミックでスリリングながら隅々にまで配慮が行き届いたエンターテインメント性が高まったものができるような気がする。
特異な設定かつクローズドな世界の物語であるだけに、映画に緊迫感と説得力を与えるディテールにはこだわってほしいものだ。
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