ショコラ
監督:ラッセ・ハルストレム
出演:ジュリエット・ビノシュ/ジョニー・デップ/アルフレッド・モリーナ/ジュディ・デンチ/キャリー=アン・モス
30点満点中16点=監3/話3/出3/芸4/技3
【小さな村のチョコショップ。ショーケースには幸せが並んでいる】
レネ伯爵を中心に、伝統と因習、戒律と道徳を重んじて人々が暮らす小さな村。北風とともにやってきたヴィアンヌとアヌークの母娘は、この村にチョコレート店を開く。断食月の開店は最悪のタイミングだったが、ヴィアンヌは「その人にピッタリのチョコを見つけ出す」という不思議な力で村人に幸福を与えていく。苦り切った顔のレネ伯爵。そんなとき村を流れる川に、ボートで暮らす放浪の一団が訪れて、混乱の度は増していく。
(2000年/アメリカ)
【要素ひとつひとつは素晴らしいが、バランスの悪さが残念】
閉鎖されたコミュニティと、異分子によるカルチャーショック。物語のテーマとしては使い古された感もある内容だ。そこで求められるのは、コミュニティを覆う“古さ”、異分子たる人物の魅力、影響と変化、危機感を募らせて排斥しようとする権力者、という流れを、いかに説得力を込めて描けるかという点だろう。
各シーンは、やや暗めの店内や夜が中心。昼の町中でも、建物に囲まれた広場を俯瞰で捉えたりなど、広がりを感じさせない画面作りで、この村の閉じられた雰囲気をよく出している。
村長のレネ伯爵は、誘惑を必死に跳ね返そうとしながら異分子の排斥に努め、けれど成功せずにキレてしまう浅はかな権力者として、コミカルかつ手堅く描かれている。
音楽は、サティにプレスリー、アイリッシュにジプシー(実はジプシーというのは蔑称らしく、最近では「シンティロマ」と呼ぶそうな)と変幻自在。北風の中、母娘が身にまとうおそろいの深紅のフードといった美術面も印象に残る。人物の視線やカット割りの工夫で“画面に映っていないところを感じさせる”といった映画ならではの技法も観られるが、全体に登場人物たちはやや舞台っぽさを漂わせる配置と動き。
いずれも、本作を寓話として位置付ける機能を果たしている。
こうした要素は上々だ。だがそこに、ただのおとぎ話に終わらせないでおこうという配慮も加えられ、けれどその配慮のベクトルが徹底されず、ファンタジーとしても人間ドラマとしても不完全な、バランスの悪いお話になってしまっているのが残念だ。
たとえば主人公のヴィアンヌは、異分子ではあるものの、あくまでもこの年の女性らしく振る舞い、ひとりの人間として描かれる。一箇所に落ち着けない暮らしに不安と疑問を抱いているし、好きな男性に対しては「その人にピッタリのチョコを見つけ出す」力も曇ってしまう。放浪の一団のリーダー・ルーを見つめる目はナマナマしいほどだ。
結果、この人が本当に大きな影響を周囲に与える存在なのか、その部分の説得力を失うことになり、ファンタジーの登場人物としてもリアルな人間ドラマを演じる人物としても、バランスが悪い。
また、チョコによってホットな関係を取り戻す夫婦や長年の片思いを実らせる中年男性など「周辺」はユニークに散りばめられているのだが、お話の「中心」が詰め切れていない。大家のアルマンド(チョコ店のイスにスっと腰掛けるだけで、あ、この人はヴィアンヌと「分かり合える」人なのだなと思わせるジュディ・デンチの演技に脱帽)と、疎遠になっている娘、その間で板ばさみの孫という三者の関係は、重要なエピソードとして途中まではしっかりと描かれるのだが、娘が母に対して心を開くという肝心の部分が唐突だ。夫に暴力を振るわれ、チョコ店に身を寄せるジョセフィーヌも、なぜヴィアンヌを慕うのかが曖昧に感じられる。
どのエピソードも、より強引さを増せばファンタジーへ、より丁寧に語れば人間ドラマへと傾くのだが、その中間で煮え切らないでいるバランスの悪さを感じてしまう。
いっそ、ヴィアンヌではなくチョコそのものを「人を惹きつける魔力を持つもの」として描く手はなかったか。せっかく、鍋の中でトロトロと溶ける様子や、そこから生まれるバリエーション豊かな菓子など、チョコレートは魅力的に画面へと現れ、観終えた後についついチョコを買いに走ったくらいなのだから、徹底してチョコ映画としてもよかっただろう。
そうして、ファンタジーの部分をチョコにまかせることで、悪かった幻想と現実のバランスが正しい均衡へと昇華し、さらにいい映画になったのではないだろうか。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント