列車に乗った男
監督:パトリス・ルコント
出演:ジャン・ロシュフォール/ジョニー・アリディ/ジャン=フランソワ・ステヴナン/イザベル・プティ=ジャック
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4
【老いた教師と犯罪者。交わるはずのなかった、ふたつの人生】
大きな屋敷に独りで暮らす元教師のマネスキエは、この小さな街にふらりと現れた男ミランに数泊だけ部屋を貸す。マネスキエは土曜に大きな手術を控えていた。ミランは土曜に仲間と街の銀行を襲う計画だった。真面目で臆病な読書家と、銃を持つ寡黙なアウトロー。自分が憧れながらも歩むことの叶わなかった人生を、相手は送っている。興味を示しあい、惹かれあうふたり。やがて、運命の土曜日がやってくる。
(2002年/フランス・ドイツ・イギリス・スイス)
【ふたりの物語。だからもしかすると、入り込んではいけないのか】
説明されないことは多い。ミランの過去も、マネスキエの家族構成も定かではない。だが、ふたりが“望んでも手に入れられなかったもの”や“いまを生きるために手に入れた価値観”が用意されたシーンの数々から浮かび上がり、読み取ることができる。
部屋履き(スリッパ)を履いたことがないというミランは、いっぽうで旅馴れた様子も見せ、勝手にキッチンを使っていたり他人の家でくつろいで時間を潰したりと、ひとり身も板についている。ズケズケと物をいい、マネスキエの長話にウンザリしつつも、本や詩、さらにはマネスキエに対して柔らかな興味を示す。
マネスキエは壊れた門の鍵をそのままにしておくくせに留守宅の物音に怯え、自らの人生の存在証明であるフランス語の詩を大切に思いつつも、必要以上に拠らないようにしている。ワイアット・アープを気取って銃を撃ち、姉の結婚相手には30年も鬱憤を募らせていたようだ。ちょっと強がりな面も持つ。
こうして、ふたりの人となりをフンワリジワリと、ちょっと哲学的で少し間の抜けた会話とともに描き出す。特に説得力があるのは、ひとり暮らしの寂しさと手術への恐れから取るマネスキエの行動だ。同じ立場に置かれたら、たぶん誰もが同じように、遺書を書き、床屋へ行く。片思いの君を食事に誘う人も多いだろう。またミランがマネスキエに代わっておこなう国語の授業では「俺にだってできる。でも、この程度しかできない」という思いが、彼の表情にあふれている。
そしてゆったりと、ふたりの思いが交わっていく。完全に打ち解けるわけではないけれど、これがかけがいのない時間であることを互いに理解していく。その過程は小説的でもあり、ふたり芝居の舞台的でもある。
撮影コンセプトも、マネスキエが中心となるカットは赤みがかった画面、ミランが主となる場面では青みを帯びた絵作りで、背景からふたりを浮かび上がらせ、ふたりの物語であることを強調する。
そしてエンディングへ。ここでも多くは語られないが、一応は、観た人それぞれに考えさせ、読み取らせるには十分な間(ま)と印象的なショットが続く。
ただ実は「解釈はおまかせします」という作りは、なんだか製作者サイドの責任放棄のような気がして、あまり好きではない。スッキリとフィニッシュに持って行って、そのうえで観客に、自分の人生や誰かとの関わりを考えさせ、再認識させる作りにするべきではなかっただろうか。
ひょっとすると「このふたりの物語」であるだけに、他者の介在を許さないものにしたかったのかも知れない。あくまでも“読み取る”ことと“観た人それぞれが解釈する”ことを求める映画である。
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