■■アニメまつり■■
世界的な作家や莫大な興行収入をもたらす作品が次々と誕生し、もはや質的にもマーケットにおける位置付け的にも、実写作品と区別なく語られるべきものといえる、アニメーション。いっぽうで、伝統のセルアニメからクレイアニメ、さらにはフルCGやセル+CGのハイブリッドなど技法は多様化し、映像表現としては特殊なものであることも確かだ。その評価基準も、当然ながら実写作品とはやや異なることになる。
ストーリーの面白さや展開の妥当性、セリフの妙、キャラクターの魅力と演じる役者(声優)の技量、音楽……などは実写作品を観るのと同様の視点と視線で評価しうる部分だが、それ以外に関しては“アニメならでは”ということを重視したい。
アニメーション最大のメリットは、自由度の高さだ。実写よりはるかに安いコストで舞台を宇宙にも異次元にも設定できるし、戦闘機を爆発させることもロボットを走らせることもできる。生身の人間にはおよそ不可能な動きをさせることも、ライオンやポットに喋らせることも自由自在。あらゆる表現が思いのままだ。いってみれば「非日常」を描くのにもっとも適した表現方法こそがアニメーションなのだ。
そうした、アニメゆえに可能である設定・演出を取り入れてこそ、アニメである必然性も存在意義も高まるといえる。もちろん、日常のささいな出来事を瑞々しく描いた秀作(注1)もあるが、“アニメゆえにできること”を中心に据え、アニメならではの楽しさを前面に出したものとするべきだろう。
いっぽうで“アニメだけれど”や、あるいは“アニメとして”といった姿勢も大切だ。主に子供向けとして発展してきたアニメだが、今日では価値観が多様化し、単に「楽しいだけ」の子供だましではなく、深遠な、あるいは身近なテーマを扱った、大人の観賞に耐えうる作品も求められている。発展途上にあるメディアとして、常に進化することが要求されている。
アニメだけれど、こんなことに挑戦してみました。アニメとして、いまできること、いまやるべきことをやってみました。そうした製作姿勢や作品コンセプトは、相当に重要なものとなるはずだ。
こうした観点から、内外のアニメーション作品を何本か観賞してみた。
(注1)
TVアニメ『魔法のスター マジカルエミ』の外伝的OVAとして、いまや伝説となっている『蝉時雨』(安濃高志監督)が該当する。十数年前にいちど観た限りだが、当時記した感想文(抜粋)は以下の通り。細部は覚えていないのだが、なんかもう絶賛である。
何も事件の起こらない日常を『マジカルエミ』という世界をベースとして描いたこの作品は、しかし、実は事件にあふれている。
クラブ活動の合宿から帰宅し、たまった汚れ物の始末や残った宿題の量に困る翔、髪を切ろうとするユッコ、何度も仕事のやり直しを命じられる国立……。そんな小さな事件、ありふれた情景の数々が彼らの日常を形作り、それは観る者の日常とも重なり合って心地よさを生む。作品内に雨が降り、そして晴れ上がっていくように、観る者の心にある曇りもひとつひとつ晴らしていく。
何でもない一日が、実はわずかずつながらも意味を持つ小さな出来事によって彩られ、その中で人はそれぞれの人生を歩んでいく。そんな当たり前のことを思い出させてくれる。そして、ひとりひとりの日常が寄り集まって、この『マジカルエミ』という世界を作っていることを再認識させてくれる作品だ。
あやとりの糸が切れたのを呆然と見つめ、落っことして割ってしまったカップの破片を拾い上げ、地に落ちそうな線香花火の最後の火に思わず手を差し出してしまう小金井氏の行為からは、平穏な日常を壊したくないという人の優しさが伝わってくる。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント