« 伝説巨神イデオン 接触篇・発動篇(上) | トップページ | Mr.インクレディブル »

2004/12/17

伝説巨神イデオン 接触篇・発動篇(下)

【発動篇:無限力発動。ふたつの人類が行き着く先は?】
 終わりなき逃亡を続けるソロ・シップから、突如としてカララとジョリバが姿を消す。光に包まれたふたりが飛ばされたのは、バッフ・クラン宇宙軍の旗艦バイラル・ジンの艦内。それは、ふたつの人類が理解しあい、戦争を止めるための最後のチャンスとして“イデ”が与えたものだったがカララの父ドバによって拒否されてしまう。真っ向から衝突するバッフ・クラン軍とイデオン。ひとり、またひとりと、尊い命が消えていく。

【この洗礼を受けずにオトナになったヤツはモグリだ!】
 スタッフ&キャストのクレジットで幕を開けるオープニング。それは、圧倒的なエンディングへの布石となる。

 主要キャラクターのひとりであるギジェの死を挟んで、ストーリーは急展開。カララの懐胎を機にイデが一気に意思と実在感を示し始める。作用しないバリアー。敵を呼び寄せるほど強まるエネルギー。「われながら、よく当たる」といいつつ銃を撃つコスモのセリフからも、イデが終焉を目指して駆け足になったことがわかる。それはまるで、焦るかのように。
 ソロ・シップとバッフ・クランとを取り込む、イデという大きな、そして理不尽な意思。その狙いは明らかだ。
「俺たち出来損ないの生物の、その憎しみの心を根絶やしにするために」

 人物たちもまたイデの思惑に振り回されぬよう、それぞれの意思を前面に打ち出すようになる。“拒絶”に塗り固められ、理不尽このうえない状況を、自らの力で打破しようという意思を示す。『接触篇』で炎の中に息絶えるパイロット・モエラのセリフが、TVシリーズの「この光は俺たちの運命を変える光だ」という受動的なものから「こんなことで俺たちの運命を変えられてたまるもんか」と変更されていることも印象深いが『発動篇』ではさらに各人物は能動的になる
 ベスの子を宿したカララはいう。「新しい命のためになら、父親殺しの汚名も被りましょう」。ジョリバでなくとも「強くなったな、あなたは」と感心させられる場面だ。
 泣いてばかりいたファードも成長の跡を見せる。かつてはカララを殺そうとしたロッタも、未来をつかみ取ろうと懸命だ。
 いっぽうで大切な人を次々と奪われたシェリルは、精神を病み暴走へと至り、歪んだ形で前へ進もうとする。ハルルもまた、メンツなど狭い社会の価値観と亡きダラムへの想いに囚われたまま。ソロ・シップに忍び込んだ折に「子どもはいい」と、不要な殺生を避ける姿も見せるのだが……。

 しかし結局は、それぞれの意思がまた新たな悲劇を生んでいくという皮肉を誰も止めることができないまま、残酷なまでに死が重ねられていく。それはもう、目を覆いたくなるほどの屍の列。だいたい「ゲスがっ」と吐き捨てて妹の顔を銃で撃つ姉など、他のどんな作品でありえただろうか。

 激しい戦闘の合間に挿入される静かな会話や息継ぎのシーンが、さらに哀しさを倍化させる。「ケガ、しないでね」と瞳を潤ませるカーシャに対して「ウン」と答えて歩み去るコスモの背中。「死ぬかもしんないのに、なんで食べてんだろ、オレ」というデク。一軍を率いるドバ総司令ですら父としての悔しさを吐露する。
 ここまで“異”を基調としてきた本作だが、彼らも我らも同じヒトという種族。知らず知らずのうちに感情を移入させてしまう(ちなみに本作で登場する地球が、われわれが住む地球と同一のものであるとは示されていない、はず)。

 物語は最終局面へ。
 たびたび“宗教的”と説明される本作だが、実は宗教へのアンチテーゼと思えてならない。無条件に理解しあうことが本当に「善し」なのか。ぶつかりあい、傷つけあい、それを乗り越えて何かを得る、そんな愚かさこそがヒトの姿ではないのか。イデは純粋な防衛本能に反応して力を示すわけだが、そんなものはカタツムリでも持っている。イデの意思が絶対とするならば、人間独自の文化や心の機微といったものは否定されるしかないのだろうか。
「じゃあ私たち、なんで生きてきたの」

 絶対的存在イデの“余計なお世話”によって相互理解へとたどりついたはずのヒトたちだが、幸いにもヒトは、どこまでも愚かだ。「幸せになろうな」というコスモに対して、キッチンはこう答えるのだ。
「当たり前じゃない。損しちゃうもの」
 相変わらず損得勘定で生きるヒトという存在の、なんと愚かで、なんと愛らしいことか。ヒトがヒトでいて、何が悪い。
 この愚かさは、未来永劫、何度も繰り返されるのだろう。寄せては返す波のように。そして観客を突き放したまま、余韻を残さずにエンディングとなる。このためにクレジットを冒頭に入れたのだろう。

 映画の紹介では常套句のように「壮大なスケール」という言葉が使われるが、馬鹿をいっちゃいけない。『イデオン』を超えるスケールを持つ作品が、世の中にどれだけあるだろうか。
 光とエネルギーの奔流、陰影、微妙な目の動きまでキッチリ描き込む作画もあいまって、この『発動篇』の“大きさ”は他を圧倒する。
 すぎやまこういちによる音楽も作品の持つスケールを十分に後押ししていて、アニメ映画史上最高の仕上がり。自分の葬式には「カンタータ・オルビス」を流して欲しいと真剣に考えるほどだ。

 もういいかげん『イデオン』の呪縛から逃れなくてはならないとも思うのだが、どうしてもその圧倒的存在感が心を捉えて離さない。恐らく30代後半~40代のオタク系クリエーターは、例外なく『イデオン』の影響を受けているはず。でなきゃモグリか、よほど運が悪かったかだ。
 リアルタイムでこの作品に出会えた自らの幸運に感謝したい。

※関連記事……『禁断の惑星』

|

« 伝説巨神イデオン 接触篇・発動篇(上) | トップページ | Mr.インクレディブル »

コメント

たにがわ様

なんと!ご自分でリメイクを!現世で実現できなくとも楽しみに待っております

ぜひ「LOTR」のように3部作で!

投稿: TZK | 2009/08/02 13:50

「OUT」を買ったらキッチ・キッチンのポスターが2部挟まっていて、最初はラッキーと思ったけれど「これはイデの試しだ」と考えると怖くなって本屋に返しに行った、という想い出があります。

瞬間的に人のファッションや行動に影響を与える映画は数多くありますが、何十年にも渡って人の価値観を左右する作品って稀有。『イデオン』って、そういう“頂”にいるものなんだと思います。

リメイクに関しては反対です。自分でやるつもりですから。しかもハリウッド実写で。夢のまた夢ですけれど。

投稿: たにがわ | 2009/08/02 06:38

「イデオン 接触編/発動編」公開初日、徹夜で並んでメインキャラでないセル画をもらいました。もろに『イデオン』の呪縛に囚われた1人です。
昨夜までNHK BS2で「ガンダム」祭りをやっていました。ファースト・ガンダムには確かに夢中になりました。しかし以降のガンダムにはまったく興味を持っていなかった。理由はかんたん、ファースト「ガンダム」の次に富野さんが手がけた「イデオン」に囚われてしまったから。
いがみあうキャラクターの中で、唯一心を寄せられたカララが、身重なのに実の姉に真正面から顔を撃たれる衝撃。次々みんな死んでいく絶望感。なぜ犠牲になっていかなくてはならないのか。救いのなさを救うのは、死しかないの?生きていることは罰なの?
当時から「イデ」=「神」という解釈がありましたが、「2001年宇宙の旅」のモノリスのように、イコール「神」ではなかろうって。なぜロボットなのかについても考えちゃいましたね。
発動編の終盤は、まさに2001年の終盤に近い展開がありましたが、子どもが観るにはトラウマになるような<愚かな大人>を見せつけられ、抵抗したってやがて大人になっていく自分はどうすればいい?とカーシャのように叫びたくなった思い出があります。「じゃあ私たち、なんで生きてきたの」
この壮大で、哲学的で、スピリチャルな物語を描きるには、当時の制作環境・技術では手に負えなかったと思います。優れた才能を持つクリエイターが、この途方もない物語を今一度リメイクしてくれないものか、と願っています。

投稿: TZK | 2009/08/01 22:46

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 伝説巨神イデオン 接触篇・発動篇(下):

» 【劇場版】伝説巨神イデオン 発動篇 [ヲレの生きる道]
結局、コスモたちは救われたのか? どうなんだろ・・・魂は救われたのかな。。。 人類補完計画を連想した。 海、生命の源の海に還ったのかな。 「うみ」って「海」だけど、「生み」とも変換できるんだよな。 生命が生み出される場所だから海なのかな。 初っ端、キッチンの... [続きを読む]

受信: 2005/08/18 16:31

« 伝説巨神イデオン 接触篇・発動篇(上) | トップページ | Mr.インクレディブル »