イノセンス
監督:押井守
出演:大塚明夫/山寺宏一/田中敦子/大木民夫
30点満点中15点=監3/話2/出3/芸4/技3
【近未来の電脳化社会で発生した殺人事件、その真相は?】
電脳化(マイクロチップやアプリケーションによる脳のサポート、あるいは脳の代替)や義体化(サイボーグ化)が進んだ近未来。多くの者が地球を覆うネットワークに接続して暮らし、もはや人間と機械との区別、自己と他者との境が曖昧となった時代。愛玩用ロボットが暴走して持ち主を殺害する事件が相次ぎ、秘密機関・公安9課のバトーとトグサは捜査に乗り出す。世界的ヒット作『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の続編。
(2004年/日本/アニメ)
【作られるべきだったか、売られるべきだったか】
事件そのものは、いとも簡単に解決をみる、といっていい。出来事と容疑者は芋づる式に連なり、真相への到達は迅速だ。ただ、語られ、映されている膨大な情報量に埋もれてしまい、事の成り行きを追うのに苦労する。
が、その膨大な情報量こそ、この作品の主題を支えているものだろう。
引用される詩、もってまわった、あるいは説明口調のセリフ、哲学的な会話、専門用語に字幕スーパーと、とにかく詰め込めるだけのモノが詰め込まれる。
画面も精緻かつ多彩で、それだけに「読み取る」ことを強いられる。CGとセル画との重なりの(恐らく)意識的なミスマッチ、ダイナミックなアクション、バトーが少女を機械から引き出すシーンやバセットハウンドの仕草などに見られる説得力のある作画、暗くて動きが速いのに「どこで何がどうなっているのか」を比較的把握しやすい構成とカット割り……。動く絵(アニメーション)としての、あるいは映画としての完成度の高さ・低さも興味の対象だが、むしろ、いずれのシーンも細部まで描き込まれ、SF的なアイディアやガジェットであふれ返っていることにこそ注意を払うべきだろう。
耳と目への、大量の刺激。まず難解なセリフありき、さらに、それに呼応する画面を、あるいは語られている内容を無効化する画面を、物量豊かに作り出すことに精力が注がれる。
それぞれの要素は、じっくりと吟味することで咀嚼できるもののはずだが、すべてをリアルタイムに処理しようとすると、われわれの生身の脳は悲鳴をあげる。
そこで問われる。じゃあ電脳化してみるか、と。そしてバトーや少佐らと同様の疑問を抱くことになるだろう。
詩や会話、景色といった外界からの刺激をデータとしてメモリにストックし、処理し、ネットワークに接続することで多くの情報を他者と共有したならば、自己が失われ、自己と他者とのボーダーラインは無いに等しいものになるのではないか、と。
このテーマを描くためならば、アニメという表現手段は正解かも知れない。実写よりも隅々までコントロールできるわけだし、コミックよりも多くの情報量を詰め込めるだろうから。
が、すでに同じ主題の前作がある。またコミックの『攻殻機動隊2』(作・士郎正宗)のほうが、単純な事件の周囲に散らばる膨大な(意味のあるものもないものも含めて)情報を極限まで詰め込み、その中で直面する自己と他者とのボーダー、さらに「人とは?」という深遠な問題へと踏み込むことに、より成功している。
とするなら、この作品、たとえばOVAとしてならともかく、劇場用映画として作られるべきだっただろうか?
アニメをパリにたとえるならば、宮崎駿はブローニュ、押井守はカルチェ・ラタンの住人だ。にも関わらず(作品そのものの評価とは離れるが)ジブリの旗印で売ったことは反則だろう。商業映画である限り売ることは当然だが、善良な森に住む慎ましき人々を“こっち側”に引き込む必要があったかどうか。
まぁ、こういう作品もある、これが世界で評価されているという認識を与えられたなら、そして観た人なりの解釈で楽しめたなら、その売りかたも成功だったといえるのだが。
表現の技法、テーマとアニメーションとの関わりなど、観るべき点・考えさせられる点も多いので存在意義はあるのだろうが、どうも腑に落ちないところの残る作品だ。
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