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2005/01/06

チョコレート

監督:マーク・フォースター
出演:ビリー・ボブ・ソーントン/ハル・ベリー/ピーター・ボイル/ヒース・レジャー/ショーン・コムズ
30点満点中15点=監3/話2/出3/芸3/技4

【刑務所看守ハンクは、何を思い、何を得たのか】
三代続いて州刑務所の看守を務めるグロトウスキ家。ハンクは、引退して体の自由も利かなくなった堅物の父バックを養い、いまだ自立の進まぬ息子ソニーを叱り飛ばす日々を過ごしていた。高圧的で全身に鬱憤を募らせるかのようなハンクだったが、囚人ローレンスの死刑、執行当日のソニーの失態、ローレンスの妻レティシアとの偶然の出会いなどを通じて、その生活と心情には変化が現れはじめる。
(2001年/アメリカ)

【技巧がかった前半から、情感の後半へ】
 ふたつの見かたがある。
 登場する“人”を中心とするなら、彼らの長い人生の中のこの時期に何が起こったかを見せる「切り取り型」のストーリーといえるだろう。切り取られているゆえに断片的であり、何もかもを描き出すわけではない。だがハンクが父にどのようにして育てられたのか、ソニーをどのように育てたのか、レティシアと息子タイとの関係、そういった背景をうっすらと感じさせてくれる。
 いっぽうで“事件・出来事の裏側”を覗き見る、という意味合いも持つ作品だ。死刑も自殺も、生活苦も交通事故も脱サラも親子の断絶も、どこにでもある出来事だが、じゃあその出来事の中にいるのは、どのような人物なのか? 看守とか未亡人とか父とか子とか、文字にすると記号化されてしまうものたちが実は、個々の生活を送っている実在だということを描き出すわけだ。

 が、切り取る量も覗き見ることのできる範囲や深さも十分ではなく、かなりの部分で「う~ん、きっとこういう心情なんだろうな」と観る側が懸命に消化することを求められるという色合いが強く、作品全体を覆うどんよりとした雰囲気そのままに、観る側の心も晴れることがない。あらすじを書くのに苦労させられる内容、ともいえる。
 構成的にも、いちど映しておいたものが後になって「あ、あのときのアレは」とわかってくる作りになっていて、それがまた人の心の移り変わりをわかりにくくしている。
 まぁ恐らくは、それが狙いなのだろう。人の心なんか、そう簡単に描けるほどわかりやすいものではないのだから。

 作品内に、真っ当なカタチの愛が置かれていないこともドンヨリの原因となっている。特に前半は、看守の父は息子を抑圧し、死刑囚の父は息子と引き裂かれ、セックスはカネを媒介としておこなわれて、侮蔑、鬱屈、諦観などで物語は塗り固められ、ほとんど一片も愛の感じられない展開。
 後半になっても、ハンクとレティシアが真っ当な愛で結ばれているとは思えず、彼らの行く先も定かではない。
 けれど、この「愛の少なさ」は、明らかに狙ったものだろう。観るものに「じゃあ“真っ当な愛”って何だろう?」と考えさせるための。

 また前半で感じられるのは、画面レイアウトの巧みさ。意識的に表情を映さなかったり、人物を画面の片側に寄せたり、背景に映り込む内容にまで意識を払うなど、フレーミングとアングルとカットの長さを工夫して各人の不安定な内面をフィルム上に刻んでいく。「室外が見える室内」というカットが多いのも、登場人物たちの鬱屈した毎日の象徴なのだろう。
 後半でも同様の手法はとられるが、やや抑えめとなり、少しずつ、ハンクやレティシアの情感をストレートに描くようになる。
 モヤモヤした気持ちをガマンする(前半)のではなく、たとえ自分の行動の理由がわからなくとも、そのときの気持ちに素直になって誰かと関わっていく(後半)ことが大切なのだと、それこそが人間なのだといいたかったのかも知れない。

 原題は『MONSTER'S BALL』で、看守たちが死刑執行の前夜、くどくど考えずに楽しむ宴を意味するという。邦題も悪くないが「罪悪感のことなどくどくど考えずに行動する」ことが作品のテーマと考えるなら、原題こそがしっくりしたタイトルと思える。

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