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2005/07/14

スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス

★10000HIT御礼企画 SWサーガ一気SP その4★

監督:ジョージ・ルーカス
出演:リーアム・ニーソン/ユアン・マクレガー/ナタリー・ポートマン/ジェイク・ロイド/イアン・マクディアミド
30点満点中18点=監4/話3/出3/芸4/技4

【アナキンとジェダイの邂逅を描くSWサーガ開幕作】
 通商連合によって封鎖された惑星ナブーへと赴く、クワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービ。このふたりの“ジェダイ”はフォースと呼ばれる力を駆使してナブーの女王パドメ・アミダラを救出、惑星タトゥイーンにたどり着く。そこで出会った奴隷の少年アナキン・スカイウォーカーにジェダイの素質を感じ取ったクワイ=ガンは、彼を連れて共和国議会のある惑星コルサントへ向かうが、フォースの暗黒面に堕ちた“シス”の策略が忍び寄る。
(1999年 アメリカ)

【世界の構築と、リアリティあふれるウソに力を注いだ作品】
 文字通りサーガの第1作として、新3部作の開幕として、シリーズの真の主役ともいうべきダース・ベイダーの物語として、すべてのファンと出資者を満足させる使命を帯びており、映画の歴史上最大級の期待とプレッシャーの中での公開となった『エピソードI』。
 思いのほか評判は悪いらしいが、『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー監督)へのリスペクトを示すことで、西部劇+時代劇+戦争映画+ファンタジー+海賊映画=スペースオペラという旧3部作の成り立ちに、さらに歴史モノもプラスしてみせて、あらゆる映画ファンを楽しませるために作られたサービス精神に富む作品といえる。

 ルーカスの“おたく的な正しさ”が発揮されたのが最大の勝因だろう。つまり、まずは「世界の構築」に力が注がれたわけだ。いや、世界の構築は旧3部作の頃から進められていたが、それをストレートに視覚化することに努めた、といったところか。
 ジェダイやフォースやシス、共和国や通商連合といった世界・舞台設定の確かさ。砂漠、欧州の王国風、水中や未来風など特徴が描き分けられた惑星都市。ドロイドや宇宙用攻撃機(ファイター)などのガジェット・デザインとネーミング。多彩な種族……。
 とにかく凄まじいまでにディテールが築かれているわけだが、それらを描き込み表現するための手段、すなわちプロダクション・デザインやCGのクォリティアップに全精力を注いでいるのである。正直、CGにはまだまだ浮いた感じがあるのだけれど、それに目をつぶってもいいと思わせるだけのディテールの細かさ、圧倒的な物量。それが、作品としての“重さ”をもたらしているともいえる。

 単に世界構築が細かいだけじゃない。
 たとえば、まずドロイド(ロボット)のデコボコ・コンビというアイディアがあり、小さいほうは共通言語を喋れないがメカやコンピュータに強い万能型(R2-D2)、大きいほうは外交担当だが金ぴかでグチっぽい(C-3PO)という設定が生まれ、設定に基づいて活躍シーンが作られ、活躍シーンにリアリティを持たせるために新たな設定が作られている。また、幼きアナキンがR2-D2のピコピコという電子音と違和感なく会話することでアナキンの無邪気さと特殊性が強調されている。
 つまり、思いつきと設定と実際のシーンとが上手くリンクしている。それが世界に密度と熟成感を与えているのだ。ストーリーと、キャラクターを表現するための映像的・演出的なアイディアと、おおもとの設定とが綿密に関わりあっているのである。
 旧3部作と新3部作、最大の差としてはCGなどのデジタル技術面ばかりがクローズアップされているが、むしろ「設定とストーリーと演出との密接な関連性により、リアリティあふれるウソを作る手法」という点で、新3部作(というかルーカス)は大きく進化したのではないだろうか。その手法を効果的に実現するためにも各種のデジタル技術が必要とされた、ということなのだ。
 こうして、フィクションでありファンタジーでもあるが“ウソ”ではない世界が作られて、ファンはその世界に酔うことができるのである。 

 1本の映画としての出来上がりも上々だ。ディテールのテンコ盛りで退屈させないだけでなく、あざといまでに展開が練られている。
 旧3部作のオープニングを踏襲した開幕は、当然のこと。さらに、クワイ=ガンとオビ=ワンがフォースを全開にしてドロイドと闘い、水中ではモンスターに襲われ、と、たたみかけるように物語へと引き込む。
 タトゥイーンでは、いよいよアナキンが登場。劇的にせず、サラっと舞台に姿を現すのが、かえってアナキンの「まだ何者でもない」という立ち位置を強調していて心憎い。また、クワイ=ガンがジェダイであることにアナキンの持ち主ワトーは気づいていないことも、伏線として提示される。「この時にワトーがサイコロを持ち出さなければ後の悲劇は起こらなかったんだよな」とか「でも、そのおかげで壮大なサーガが生まれたんだよな」などと考えさせてもくれる。
 そして中盤の見せ場、ポッド・レースへ。レース用ポッドのエンジン音を描き分ける音響面も含めて、技術面では一級の仕上がり。スピーディーでスリリングであること以上に、アナキンがスイッチを操作して左右のポッドの出力量を調整するといったディテールへの凝りかたがイイ。仕組みはわからなくとも“見せて伝える”という意図が伝わってくる場面だ。

 クライマックスには、ジェダイvsダース・モールの剣戟、グンガンvs戦闘用ドロイドの白兵戦、銃撃戦、さらにはスターファイターによる宇宙での闘いと、タイプの異なる戦闘を散らして、めくるめく展開。しかも、無駄なセリフを極力排してスピード感・緊迫感を削がない配慮も示してくれる。
 特にダース・モールとの闘いの場面では、これまた仕組みはわからなくともエネルギーの壁でクワイ=ガンとオビ=ワンが引き離されてしまい、そのジリジリ感が実にいい。このシーンに流れる『Duel of the Fates』も勇壮かつキャッチーで、SWサーガを代表する名曲だ。

 キャラクターの散りばめかたも、またいい。気品あふれるアミダラ、アナキンの無邪気さ、シディアスの不気味さ、あの見てくれなのに出ているだけで場が締まるヨーダ、悪評高いが笑いの素として活躍するジャー・ジャーやグンガンの首領、通商連合のマヌケなふたりなど、誰ひとりとして疎かな扱いを受けていないのがスゴイ。
 クワイ=ガンとオビ=ワンの力関係・信頼関係の描写はやや希薄に思えるのだが「ひょっとしてクワイ=ガンって、マスターとしてはいい加減なのかも。だから無理やりアナキンを引っ張ってきたりして……」なんて想像させる。

 あくまで「3つ連続するストーリーの第1話」という位置づけであり、かつ展開がやや性急、相変わらずセリフだけで進めてしまっているところもある。が、SWサーガの魅力である“見せて伝える”場面もふんだんに用意し、とにかくパワフル。旧3部作同様のワイプによるシーン転換も、叙事詩としてのリズムを生み出している。
 技術的な下支え(細かな設定とCG)を受けて広がる世界、おたく的正しさ、他にマネのできない独自性(と、カネと時間のかけかた)、映画的サービス精神、転がるストーリーの面白さ、設定と物語とを楽しく見せる演出、それらの融合が、間違いなくこの映画を大作たらしめ、娯楽作たらしめている。一級のエンターテインメントだ。

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