笑の大学
監督:星護
出演:役所広司/稲垣吾郎
30点満点中16点=監2/話4/出4/芸3/技3
【検閲官VS作家、丁々発止の火花が脚本を作り上げていく】
開戦間近の昭和十五年、厳しく言論が統制されている日本。演劇用の脚本も検閲の対象となっており、劇団『笑の大学』の座付作家・椿一は、検閲官・向坂睦夫のもとを訪れる。「検閲など本来は不要。軽演劇などやめてしまえばいい」という堅物の向坂は、椿が書いた脚本に何かと注文をつけ挫折させようとするが、必死の椿はことごとく要求に応えていく。しかも、そうすることでますます面白いものになっていくのだった。
(2004年 日本)
【映画というよりもコンテンツか】
まぁ誰もが感じることだとは思うが「映画にする必要はなかったよな」という作品。もともと舞台用のシナリオ、しかも取調室という狭い世界で、登場人物ふたりの会話によって展開していく構成。また「舞台を作り上げていく過程が舞台になっている」という面白さも持つ脚本だ。つまり、きわめて非映画的なストーリーであるはずなのだ。
なんとか“映画”にしようと努力はしたのだろう。取調室では窓を背景とした印象的な絵を作るなど、さまざまな方向・画角でふたりを捉えて心象を描き出そうとしている。当時の街並みの再現も、なかなかのもの。
が、もともと三谷作品には「思いもかけないセリフが、瞬時におかしなイメージとして観客の脳裏に広がる」という魅力がある。その一瞬の想像が爆笑を誘うのだ。たとえば三谷自身がメガホンを取った『みんなのいえ』には1階がだだっ広い和室という設計図を見て「海の家じゃないんだからね!」と妻が叫ぶシーンがある。ここで本当に海の家のカットを挟み込むと、おかしさは半減してしまったはずだ。
逆に『12人の優しい日本人』(中原俊監督)では、わざわざ「だよ~んのおじさん」を見せていた。あれはいきなり「誰ですか、だよ~んのおじさんなんか書いた人は!」とやったほうが笑えただろう。
本作でも「さるまた失敬」といったギャグや座布団回しなど、座長に関わる部分をわざわざ映像化することなく、想像させるだけにとどめたほうが効果的だったのではないか? つまり“映画”にしようという努力がムリめに作用してしまっているのだ。
5歩くらい譲るなら、検閲官・向坂が実際に舞台を観て笑いの大切さを知るというシーンは映像化する必要があったといえる。が、その場面がさほど鮮やかでないのは痛い。
面白くないわけではない。笑えることは確かだ。何も考えずに観て楽しめるし、あるいは「笑いのためだけの無理やりな設定はダメ」「どんな制限があっても笑いを取る方向に筆が進む」といったストーリー作りに対するこだわりに大きく頷くこともできる。反戦のメッセージを読み取ることも可能だが、それが説教臭くなっていないことも評価したい。
役所広司も、さすがだ。動きや台詞回しは舞台を意識した気配もするが、冷静淡々の語りといきなりの爆発、そのギャップを適確に披露してくれる。稲垣吾郎は語尾が「……ですぇ」に聴こえるなどサ行の発音に怪しい部分は残るものの、懸命さとインテリジェンスとを併せ持つキャラクターにハマっており、そう悪くなかったと思う。
だから、作品トータルとしては「愉快」といえる。が、映画ではない。じゃあ何かといわれれば“コンテンツ”だろう。CSにBSデジタルに地上波デジタルと多チャンネル化が進み、番組の数を確保しなければならないテレビ局が作り出した、この先10年くらい何度も使えるコンテンツだ。ご丁寧なことに15分置きにCMを入れやすい作りになっているし。
そう考えて観ると、ちょうどいいデキである。
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