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2005/09/22

パッション

監督:メル・ギブソン
出演:ジム・カヴィーゼル/マヤ・モルゲンステルン/モニカ・ベルッチ/フランチェスコ・デ・ヴィート/ルカ・リオネッロ/マッティア・スブラジア/フリスト・ナーモフ・ショポフ/ロザリンダ・チェレンターノ

30点満点中16点=監3/話2/出4/芸4/技3

【イエス・キリストが磔にされる1日を描く】
 紀元前のエルサレム。預言者イエスが弟子ユダの裏切りによって捕らえられる。ローマの総督ピラトは「この者を罰する理由はない」とするが、ユダヤ教の司祭や民衆の声に押されて鞭打ちの刑を与える。幾度となく打たれ、血を流して倒れるイエス。しかし、それでも司祭らの怒りは収まらず、結局イエスは磔の刑に処される。十字架を背負ったイエスを見守ることしかできない母マリア。イエスは「この者たちに許しを」と祈るばかりであった。
(2004年 アメリカ/イタリア)

【キリストではなく製作者たちの情熱に触れる映画?】
 挙式はカトリック教会だったが、クリスチャンではない。初詣は毎年、八幡様だ。運命論者でもなく、わざわざ他人ん家を訪ねて布教活動をせねばならない宗教なんて出来損ないだとも思っている。
 かといって無神論者でもない。ビッグバン以前の宇宙を考えたり、あるいは「なぜ人は存在するか?」と問うとき、絶対的な力や意思の存在を確かに感じることもある。ただ、唯一絶対的な神よりも日本古来の“八百万”という考えのほうが健全でしっくりとしたもののように思われる。
 それでも神を「世の中や物語の“構成要素”」として考えることしかできない。特にキリストやキリスト教やその神については、星野之宣作品(『砂漠の女王』だったか)での「歴史上、もっとも多くの戦争を引き起こした原因はキリスト教にある」という説や、光瀬龍&萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』の影響もあって“材料”とか“ネタ”としか思えないのだ。
 ま、正直なところ、神がいようがいまいが知ったこっちゃない。

 生活や精神構造や社会とキリスト教とがドップリと関わっている人たちにとっては、そうじゃない。
 本作では、材料やネタとなることを良しとせず、ひたすらストレートに、イエスが磔にされる1日が再現される。だからストーリーは、あってないようなもの。もちろん、サタン(だとは、観ている間はわからなかった)が登場するなどメル・ギブソンらの創作も織り交ぜられているが、「実際こうだったのかも」と思わせることに徹底して心を砕いている。
 つまり映画化ではなく映像化なのだが、ただ、映像化のクォリティは高いといえる。赤み・青みが強調されてクリアでシャープな絵が作られ、適度にフラッシュバックが挿入されるなどエンターテインメントっぽい流れの良さもある。重心の低い音楽は画面にマッチし、街並みや衣装の再現性もたぶん高いのだろう。
 カメラは登場人物たちと一定の距離を保つ。イエスから2~5mといったあたりか。単調ではあるが、その狭い範囲の中でフレーミングをいろいろと工夫し、しかもうごめく人物たちの苦悩や狂気をしっかりと伝えてくれる。観客がその場面に居合わせている気分を味わえるという効果も絶大だ。

 全編のセリフを当時話されていたというアラム語やラテン語で構成したのも映画のテーマや目指すところを考えれば当然の配慮だろうし、エジプト人もヘブライ人も平気で英語を喋っちゃう旧来のアメリカ映画に対するアンチテーゼともなっている。
 配役も良。主要キャスティングはみな、カッコ良すぎず、ピッタリと役柄にハマっている。中でもモニカ・ベルッチは、その神秘性と美貌を存分に発揮している。

 お話を楽しむためのものではないし、「なぜ『イエス磔祭り』になったのか」「イエスの教えがそこまで支持された原因は?」などと、やっぱり解釈遊びのネタとしてしか受け取れないのだが、少なくとも映像化に賭ける製作者たちの情熱=パッションは存分に感じ取れる、質の高い作品にはなっているように思う。

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