遠い空の向こうに
監督:ジョー・ジョンストン
出演:ジェイク・ギレンホール/クリス・クーパー/ローラ・ダーン/クリス・オーウェン/ウィリアム・リー・スコット/チャド・リンドバーグ/スコット・マイルズ/クリス・エリス
30点満点中17点=監4/話4/出3/芸3/技3
【熱い思いをロケットに乗せて】
1957年10月、労働争議の絶えぬ炭鉱の町・コールウッド。高校生のホーマーは夜空を翔ける人工衛星スプートニクに感動し、仲間のクエンティン、ロイ・リー、オデールらとロケット作りに熱中しはじめる。目指すは全米科学コンテスト。ホーマーの父で炭鉱夫のリーダーでもあるジョンはその様子を苦々しく見つめていたが、教師のライリーや心優しき鉱夫たちに支えられて、ホーマーたちの研究は進む。だがある日、大事件が発生する。
(1999年 アメリカ)
【この空の下、自分はどこかとつながっている】
夢を現実のものとするために必要なもの、それは、信念や情熱、努力、周囲の理解と協力などはもちろんのこと、まずは“きっかけ”ではないかと思う。幸運といいかえてもいい。何らかの幸運な瞬間、偶然の出会いがなければ、そもそも「夢を抱く」という心にさえ至らないだろう。“きっかけ”という幸運なスタート地点があってはじめて、信念や情熱も持ちうるのだ。
ホーマーらが暮らすコールウッドの町は、どこまでもモノトーン、誰もが下を向いて歩き、およそ幸運など訪れそうもない雰囲気だ。町を出る手段といえば、アメフトで活躍して奨学金を受け取り、大学へ行くことくらい。けれど灰色の空と大地は、そんな夢さえも押し潰そうとする。
重い空気が垂れ込める未来のない炭鉱の町、息子の情熱を理解しようとしない父親、という舞台設定は『リトルダンサー』(スティーヴン・ダルドリー監督)に共通するが、ひたすらアンダー気味に映し出されるコールウッドは、あちらより遥かに閉塞感に満ちている。
ラジオから聴こえるフィフティーズ・ミュージックの陽気さが、かえってこの町の暗さを浮かび上がらせる。マーク・アイシャム(音楽)によるオリジナル・スコアは弦をメインとする静かな曲。プレスリーやプラターズと好対照をなして、なおさら物悲しさが募る。
ところが、だ。
夜の空からは、あのグレイの雲は消え、まだ見ぬどこかの町の空とつながっていることを感じさせる。そして、星空を横切るスプートニク。ホーマーでなくとも、そこに“きっかけ”を、“夢”を、さらにいえば町を出るための手段を感じ取ることだろう。
ここからのテンポが、実に軽快。ホーマーがクエンティンと打ち解けあうシーン、ロケット打ち上げの度重なる失敗、線路泥棒などがリズミカルかつユーモラスに描かれていく。暴走したロケットが、映画を観ているこちらの脇をすり抜けていくような音響も、ドキリとして楽しい。
特に美しいのが、ホーマーたちが何キロも歩いて町を抜け出し、ロケット発射台の設置予定場所、小高い丘へとたどり着くシーン。ここではじめて青空が顔をのぞかせ、森の緑は鮮やかとなる。静かに友情が育まれていることも感じさせて、前半の大きな見せ場となっている。
後半も、父との衝突や事件があって、飽きさせないストーリー展開。4人の無邪気さや懸命さに加え、彼ら4人に夢を託そうとする周囲のオトナたちの姿、あるいは一向に理解を示そうとしないホーマーの父ジョンの信念なども丁寧に描かれる。インパクトや派手さはないが、バストショットでしっかりと登場人物の表情を映し出し、各人の心境変化を観客にゆっくりと読み取ってもらおうという作りとなっているようだ。
そして、前半の暗さ・重さを吹き飛ばしてくれるクライマックス。本作が「夢を抱くこと」や「その実現に向かって邁進すること」の大切さを説く映画であると同時に、ある意味で“大空賛歌”でもあることに気づかされる。
そう、空はどこまでも広がっている。下を向いて歩くのではなく、見上げていれば何かをつかめる。もちろん、つかんだ何かを離さずに自分のものにするための努力は欠かせないが、まずは「大空の下、自分はどこかとつながっている」と認識することが大切。そんなことをいいたい映画だと思えてくる。
そうしてつかんだ何かが、どこまで人を変えるのかは定かではない。けれど少なくともこの4人は、つかんだものを手繰り寄せて、貧しい炭鉱の町に埋没することはなかった。
欲をいえば、ホーマーとクエンティン以外の2人、ロイ・リーとオデールについても細かな心情や「つかんだものを離さないための歩み」を描いて欲しかったところだし、彼らの教師=ミス・ライリーについても掘り下げ不足に思えるが、大空を“きっかけ”として羽ばたく若者の姿を、まずまずの鮮度で描いた佳作といえるだろう。
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