リトル・ヴォイス
監督:マーク・ハーマン
出演:ジェイン・ホロックス/ユアン・マクレガー/ブレンダ・ブレシン/マイケル・ケイン/ジム・ブロードベント/アネット・バッドランド/フィリップ・ジャクソン
30点満点中17点=監4/話3/出4/芸3/技3
【声を自在に操る少女、その運命は?】
奔放な母マリーと暮らす少女LV(リトル・ヴォイス)。家から出ることも稀で、亡き父が遺したレコードだけが彼女の友だち。ビリーの誘いにも首を縦に振ろうとはせず、朝な夕な、ジュディ・ガーランドらミュージカル・スターとともに歌うことだけを楽しみにしていた。LVが往年のスターたちの声音をそっくりに真似できることを知ったスカウトのレイ・セイは、臆病なLVを説き伏せ、彼女を舞台に立たせようとするのだが……。
(1998年 イギリス)
【音楽にあふれているが、実は音楽映画ではない】
一見すると“音楽映画”に思えるが、どうやらそうではないらしい。なにしろ主人公のLVが歌うのは、すべてモノマネである。彼女自身のものといえる音楽や声は、なかなか聴くことができない。
モノマネというのは、芸の中でも二流三流に属するものだと思う。どれほどソックリだとしても、それは「似ている」だけ。芸というより特技・特徴といったほうがピタリとくる。
ただし、中には「似せる」努力や独創性が感じられるモノマネもある。乗り移ったというか神がかっているというか、一瞬にして別人になりきる類のモノマネにも心が惹かれる。よくぞ、その人のそんなところを抽出して「似せた」ものだと感心させられるようなネタ。それらは確かに一流に近い芸として認められることだろう。ケビン・スペイシーによるクリント・イーストウッドやアル・パチーノは、目元・口元のかすかな動きだけでその人物になりきり、爆笑させられるとともに、その抽出テクニックの鮮やかさには寒気すら覚えたほどだ。
ではLVはどうか?
生来の柔軟性に富んだ声に加え、その「似せよう」とする姿勢には感心させられる。そして、おそらく死んだ父親を喜ばそうと努力した成果だろう、確かに似ている。一瞬にしてジュディ・ガーランドやマリリン・モンローへと変貌を遂げる様には、客席の男女と同じように、こちらも背筋をピンと伸ばしてしまう。
だが、寒気を覚えるほどではない。しかも音声を日本語に切り替えてみると、なんと、この歌声まで吹き替えちゃってる(松本梨香?)。つまりLVの芸なんて、そのレベル。しょせんはモノマネ、しょせんはニセモノ。ジュディやモンローなど、偉大すぎるほどのスターたちが「こんな場末の店で歌わせないで」と顔をしかめているかのような、荒い声。LVが浴びる拍手と歓声は、半分は彼女に対してのものだとしても、残り半分はオリジナルの偉大さに寄せられるものであるはず、とも考えさせる。
また、ことさらに印象づけられるのは、ちっぽけな存在としてのLV、彼女が住む世界の小ささだ。後半のステージシーンでは堂々と歌い踊るLVだが、前半には、ポンと抜けるような景色や、ダイナミックな動きのあるカットは、ほとんどといっていいほど出てこない。小さなアパートの中にカメラが入り込んで、いかにも狭苦しくLVを捉える。
そんな小さなカゴから出てステージに立つものの、そこもまた彼女にとっては狭くて息苦しい、自分の殻の中。ひとりでレコードに耳を傾けた自分の部屋の延長でしかない。
才能があるのに内気、ではなく、他者と関わり合うことを避けるために身につけた歌、そういう描きかたに思える。
そんな、ニセモノで、しかも閉じているLVに、愚かにも生涯と全財産を賭けようとするのだから、レイ・セイの器なんてたかがしれている。いわば「他人のフンドシで相撲を取っているLVに、さらに乗っかる」商売。失敗して当然だ。ましてやステージ開催の資金捻出のために馬券に頼るほど浅はかな男である。ヤケになって怒鳴るように歌う姿には、笑えるほどの哀愁が漂ってはいるが。
母マリーもまた自分勝手なオンナ。突如歌い出したLVの声をレイ・セイやミスター・ブーに聴かせようと飛び出したのは母親としての無意識の行動だったように見えたが、LVを追い詰めるためだけに生きている存在であることには違いない。
LVが自分をちっぽけな存在であることをしっかりと認め、そのうえで好意を示す相手が、自分もまたちっぽけな存在であると自覚するビリー。彼にとっては、彼女が歌うモノマネ・ニセモノの歌なんてどうだっていい。空の下で素のまんまのLVと語り合いたい。それだけが望み。
そんなビリーからの電話にパっと明るくなるLVの表情が、ステージ上よりも生き生きと輝いていることが印象的だ。そうしてビリーの存在によってLVは、誰のモノマネでもない、自分自身の声を取り戻す。大声でわめき立てたりもするようになる。レコードではなくビリーの声を聴くことで、LVは自分自身のアイデンティティを手に入れるのである。
名曲の数々、ユーモラスでテンポのいい展開から、一見すると音楽映画に思える本作。だが、音楽によってLVが救われることはない。たまたまLVにとっての“殻”が音楽というだけの話だ。ニセモノを身にまとってウジウジと殻の中に閉じ篭っている少女と、彼女に振り回される大人たちの姿を描くためだけに、上映時間の大半が費やされる、負の空気に満ちた映画だ。
そんな殻を打ち破るために必要だったのが、ビリーとの出会い。だからこれは音楽映画ではなく、偶然の出会いと、その出会いがもたらす人生の変化を描いた作品なのではないだろうか。
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