ザ・リバー
監督:マーク・ライデル
出演:メル・ギブソン/シシー・スペイセク/スコット・グレン/シェーン・ベイリー/ベッキー・ジョー・リンチ
30点満点中18点=監4/話4/出4/芸3/技3
【それでも彼は、その土地を守り通すと誓う】
テネシー河のほとり、先祖代々受け継ぐ土地で農業を営むガーヴィ家は、度重なる洪水に悩まされ、銀行からの融資もままならず、明日の糧にさえ困窮する暮らしぶり。主のトムは出稼ぎのため工場へと赴き、妻のメイは息子ルイスや娘ベスとともに作物と家畜を守る。メイの元恋人で、農作物卸売り会社の次期社長でもあるジョーは、ダム建設のためガーヴィ家の土地を含む一帯の買収を進めるが、トムは頑なにこれを拒み続けるのだった。
(1984年 アメリカ)
【守りたいものがありますか?】
疲れがたまったり煮詰まったりしたときは、いい映画を観てリフレッシュするに限る。たとえそれが重く苦しい内容のものであっても。
とにかく、ひたすら惨めな暮らしが描かれる。トラックは錆びつき、融資は断られ、アイスクリーム1つ買うにも躊躇する生活。家屋も手も着るものも土にまみれ、ここでは幼い子供たちも“労働力”として扱われる。医者も呼べず、泣きっ面に蜂の出来事が連続する。
スト中の工場へと出入りするトムたちと、彼らを取り囲むピケを張る労働者たち。同じ貧しいものどうしが、限られたパイを奪い合う生活。
「農家は食べ物を作っているのに、なぜ飢える」
トムならずとも、どこかが間違っていると感じざるを得ない。
遂には(思い出の品を含む)家財まで売り払い、やがては追われるように去るしかない。行き着く先はどこか他の町だが、そこにも住む家はない。
水浸しの谷を空撮で捉えた映像が、ここが生活にも農業にも適さない地であることを明らかにする。ルイスが憧れる高級トラクターがクボタ製であることも、われわれ日本人には印象的だ。
殺伐とする汗。蹂躙されるプライド。
それでも彼らは優しさを失わない。工場に紛れ込んだ鹿を逃がし、牛の看病に夜を費やす。弱いものたちに注ぐ、あたたかな視線。その優しさが、哀しさとなって観るものに届く。
役者たちも、常に苦渋を顔に刻みつけたまま。支配者であるはずのジョーですら「この世界の、どうしようもなさ」に喘いでいるかのようだ。ただひとり無邪気に振る舞うベスの姿が、やっぱり哀しさとなって映る。
ズームアップ&ダウンを多用するカメラは古めかしく、また、自然の大きさよりも世界の狭さを感じさせる絵。ジョン・ウィリアムズの音楽は珍しく画面にフィットしない。だが、それらは皮肉にもトムたちが暮らす土地の閉塞感を描き出していく。
ただし、これは単に「貧しい農村」という事実を映し出しただけの映画ではない。社会的問題を描くものでもない。
もっと身近で、生きていくうえでの本質的なことを訴えかける作品に思える。いってみれば「これほど頑なになってまで、守りたいものがあなたにはありますか?」という問いかけだ。
土地を売り払い、幾ばくかのカネを手にして生活をリセットする。そういう生きかたもアリだろうし、そうしてつかめる幸せもあるはず。いっぽうでこの土地にしがみついてこそ得られるものもまたある。その分岐点にあって輝くのは打算や諦めではなく、意固地にも思えるほどの信念であることを語りかけてくる。トムが何よりも大切にしているのは、土地ではなく、その信念なのだ。もっとも、それがまた哀しかったりするのだけれど。
前に観たのは1986年の9月だから、およそ19年ぶりの観賞。当時のメモを見返すと、まだまだ読解力が足りない(いまでも足りないけど)なとも思うが、音楽や撮影に対する不満が記されていたりして、基本的な観かたは変わっていないなぁとも感じる。
そして、19年前も現在も強力に心を捉えたのが、トムが工場を後にして帰宅し、その夜、ルイス兄ちゃんのベッドにベスが潜り込むまでのシーン。この間、感情を露にするのはトムに唾を吐きかける主婦だけである。にも関わらず、トムが抱えているもの、それを見守るメイ、父を慕うベス、強い男であろうとするルイスらの心が痛いほど伝わってくる。このときのベスのセリフは19年にも渡って、ずっと心に住み着いている。
とんでもない名シークエンス・名セリフであり、こういうものに出会えるから、重く苦しい映画であっても不思議と心は晴れ晴れとするのだ。
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