妖怪大戦争 2回目
★★★ネタバレ全開です★★★
少しずつ消化。要するに“通過儀礼”なのだな。
父や姉と離れて暮らし、級友にはイジメられて疎外感を抱いているタダシにとっての1stプライオリティは、たぶん、大人になること。父や母のように自分の判断で自分の行動を決め、周囲の行動まで決めてしまえる「大人」になりさえすれば、この状況をなんとかできるし、好きな人と一緒に暮らせない寂しさにも対処できる、と考えていたのだろう。とはいえ「父や母のような大人」にはなりたくないとも思っていたはずだ。
が、この時点では、どうすれば大人になれるのか、彼は知らない。しかも佐田の言葉から、大人になればスネコスリが見えなくなってしまうことを知ってますます困惑する。
困惑を抱えたまま、彼は否応なく戦争に巻き込まれていく。いや、端緒は否応なくであったが、やがて自らの意思で剣を取る。その決断が結果として(両親が自分にしたのと同じように)スネコスリを傷つけてしまい、彼は打ちひしがれる。
加藤に対して恨みも抱くが、その恨みや怨念は“穢れ”であり、自分はまさに穢れた生き物としての人間であり、穢れを捨て去らない限り妖怪サイドに立つことはできないと知る。あるいは究極まで怨念を増大させない限り、人間は無力であると思い知らされる。
それでも子どもとしての(あるいは麒麟送子としての)、1つのことをやりとげたという達成感はあったのだろう、彼は麒麟にまたがり空を飛ぶ。子どもとして無邪気にふるまう、最後の一瞬である。
目覚めた後、まだ彼は混沌としている。「連絡も入れず外泊をする」ことは大人的行動の1つかも知れないが、それは単に形だけのことに過ぎないとも感じている。
で、佐田からの問いかけをじっくりと咀嚼する。
戦いの中で得た新しい価値観は、確実に子どもの思考能力のキャパシティを超えてしまっているが、やっぱり、大人になれば対処できるはずだ。ただしそれは、この一夜の出来事と完全に決別することを意味する。
いつまでもこの日の輝きを忘れぬままで大人になることは可能だろうか。自分が出会った中でもっとも純粋で、もっとも子どもに近く穢れも少なく、妖怪の存在を心から信じている佐田ですら、もはや妖怪を見ることはできないという。初恋にも似た感情の対象であった川姫が、人間とは相容れない信念の持ち主であることもわかっている。佐田と同様に、数十年もすれば自分も川姫から忘れ去られてしまうかも知れない。
そして彼は、すべてを一切合財受け入れるわけでも、逆に見なかったことにしてしまうわけでもなく、ただ大人になることを選択する。
その手段が「真っ白な嘘」。
とにかく目の前にいる好きな人だけは傷つけまい、他者への思いやりだけは忘れまい、それだけが自らの穢れを拭い取る行為ではないだろうか、と考えて。
思いやりの一端として、タダシは山田さんの送別会に参加するのだろう。しかし人間は愚かで、相変わらずゴミを捨て続ける。
せめてタダシにだけは「あちら側」にいて欲しかった(恐らく佐田も、タダシが嘘をついたことに気づき、同じような感傷を味わったはず)のだが、結局のところ人は、どれほど壮絶な経験をしようと、どんなカルチャーショックを受けようと、大人になるしかない。そうしないと生きていけないほど世の中は穢れてしまっているのだ。
その事実を突きつけられてヘコむのである。
……と、ここまで至るのに半年も時間がかかってしまった。大人になったタダシを見て泣き、思考を投げ出してしまってもよかったのだが、タダシに倣って自分なりに咀嚼しないと次には進めない。この先もまだまだ、観るたびに別の感想を抱いたり、補完したりしていくことだろう。
ったく、イジワルな映画だ。
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