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2006/03/04

テルマ&ルイーズ

監督:リドリー・スコット
出演:スーザン・サランドン/ジーナ・デイヴィス/ハーヴェイ・カイテル/マイケル・マドセン/クリストファー・マクドナルド/ブラッド・ピット/スティーヴン・トボロウスキー

30点満点中17点=監3/話3/出4/芸3/技4

【堕ちてゆくのを止められない、ふたりの女】
 ウエイトレスのルイーズは、バンドマンのジミーとの関係に悩んでいた。平凡な主婦テルマは、夫ダリルからの束縛に息苦しさを感じていた。ふたりは羽根を伸ばすため、週末、友人が持つ山荘へとクルマを走らせる。だがその道中のドライブインでテルマがレイプされそうになり、ルイーズは相手の男を撃ち殺してしまう。現場から走り去るふたり。後戻りのできない逃避行の中で、ふたりの関係と価値観、そして未来は、少しずつ変化していく。
(1991年 アメリカ)

【愚者に運命など変えようはない。そして人間は愚者なのだ】
 愚か者はいつまでたっても愚か者で、不幸な人はどこまで行っても不幸。そんなことを印象づける作品だ。

 ふたりが犯罪者として堕ちていくきっかけは、決して「レイプ犯を撃ち殺した」ことではない。テルマはダリルと出会ったときに、ルイーズはテキサスで暮らしていた頃に、すでに転落の道へと踏み込んでしまっていたのだろう。いやひょっとすると生まれたときから、ふたりの道行きは抗いようのない運命として始まっていたのかも知れない。

 演出・演技・画面も、そう読み取らせるよう作られている。
 1シーンずつに、たっぷりと時間が取られる。考えをまとめるのに、ひとことを搾り出すのに、ルイーズもテルマも苦労する。そうして出した答えや言葉は、まったく彼女たちの救いにならない。ましてや思いつきで取った行動は、ふたりを貶めていくばかりだ。
 ホイールに映る男、警察だと知って客が静まるカフェ、鼻先をかすめていくクルマといった、鋭角的なカットやハっとさせるシチュエーションは、人間が自分以外のものに囲まれていること、それら周囲の世界に対して干渉し得ないことを思い知らせる。
 ルイーズのウエイトレス姿は似合わず、テルマはふざけてサングラスをかける。本当の自分ではない彼女たち。
 走っても走っても延々と続く荒野、始終もうもうと立ちのぼる砂煙に阻まれて、行く先は見えない。
 どうにもならない運命が、そこにはある。

 彼女たちを運命の中に押し込めるのは、男という存在だ。
 ピザを踏んづけピンクのシャツを着るダリルは、その馬鹿さ加減をもってテルマを蹂躙する。優しさを示すジミーは暴力的な部分も垣間見せて、一方的な愛という“枠”でルイーズを閉じ込めようとする。JDは女を食い物にし、ハーランは女をモノとして見る。
 どの男がいちばん悪いのかと考えると、いやそもそも男という存在が悪なのだ愚かなのだという答えへと行き着く。
 そんな男どもを享楽的に求め続けるテルマや、男に対して「NO」といえないルイーズも、また愚か者だ。

 そんな中に、刑事のハルが、人間性善説の象徴として、救済の手段として用意される。この救済に、テルマやルイーズがもっと早く出会っていれば。けれどハルが持つ愚直さや仕事への熱意という“男”部分は、ふたりを救うことはできないし、そもそも出会えなかったことが運命ともいえる。
 意訳たっぷりの字幕で観賞されるのも、この映画の運命だ。

 運命から抜け出す知恵・方策として破滅を選んだテルマとルイーズ。だがその選択も、運命にほかならない。
 運命を覆す過程を描いた映画は多いが、本作は「そんなことが本当に可能なのか」という疑問を投げかける。少なくとも愚者には、運命をひっくり返す力などないだろう。
 そして、人間はたいていの場合、愚者なのだ。

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