舞台よりすてきな生活
監督:マイケル・カレスニコ
出演:ケネス・ブラナー/ロビン・ライト・ペン/リン・レッドグレーヴ/スージー・ホフリヒター/ジャレッド・ハリス
30点満点中17点=監3/話4/出4/芸3/技3
【子ども嫌いの劇作家に訪れた転機】
近年スランプ気味の天才劇作家ピーター・マクガウェン。最新作は演出家や役者から「子どもの描写が不自然」と指摘される。実はピーターは大の子ども嫌い。「お義母さんの面倒も見なきゃいけないし仕事の邪魔もされたくない」と、妻メラニーからの子作りの求めにも応じようとしない。そんなとき、近所に引っ越してきた少女エイミーが頻繁に遊びに来るようになり、彼の名を騙るストーカーとも話すようになり、ピーターは変わりはじめる。
(2000年 アメリカ)
【閉じている、から、開いてゆく、へ】
別に子ども嫌いじゃないし、妻も「子どもが欲しい」とはいわないが、わが家とマクガウェン家はちょっと似ている。
夫は自宅でモノを書き、妻には生徒がいて、そこそこの生活。真っ当な人間じゃないから、子どもを真っ当に育てる自信は持てない。いまの生活リズムを崩したくもない。だから、子どもはいない。
なにより、現代社会は歪(いびつ)で子育てには向かない、ということが大きい。そうした“言い訳”は本作でもしきりに描かれる。
テレビのスイッチを入れれば事件に事故に紛争のオンパレード。市民には交通法規を遵守しようという意思がない。他人の名を騙るおかしなヤツもいるし、誰もが“主張”するようになって人付き合いは煩わしいばかりだ。
聞いたことのない病気、身体障害。
なまじ長生きが可能になったら、こんどは介護という問題が出てくる。認知症であるエドナ(妻メラニーの母)の存在は、いま抱えているやっかいごとであると同時に「自分の面倒を、将来は自分の子どもに見てもらう」という申し訳なさにもつながる。
それらは子育てに不向きな世の中であることを示すだけでなく、ただでさえスランプのピーターが、ますます“閉じて”しまうのも、そりゃあ無理のない状況だと思わせるもとにもなっている。
とにかく閉じているというか、フツーに他人と関わることを避けているのがピーターの生きかた。なにしろ夜の散歩のお供は、自分のストーカーだ。十数年前の自分自身を投影できる存在としての。
ピーターと偽ピーターの会話以外に、誰かと誰かが真面目&真っ当に会話する場面は、ほとんど出てこない。特にピーター。たとえば「Aですか?」と訊かれたら、彼は「イエス」でも「ノー」でもなく「Bではないね」と答える。全編に渡って、そんなヒネクレたセリフに満ちている。
LAで暮らすイギリス人、すなわち異邦人という設定も、彼が閉じてしまう根拠となる。アイデンティティを守るために、自分でスパナを握ってでもポンコツのイギリス車をメンテナンスするあたりがいじらしい。
とはいえピーターも、もともとは閉じた人間ではなかったはず。だからふとしたキッカケで、簡単に開いてゆく。
脳性マヒの影響で足に障害の残るエイミーを演じたスージー・ホフリヒターのナチュラルさは見事で、ピーターでなくとも開いてしまうことだろう。
こうしてピーターの“閉じた”姿と“開いていく”様子が、小ぢんまりとして地味だけれど軽快に描かれていく。特にピーターが夜の散歩中に警官と出くわすシーンは、実にキレがいい。アイリッシュ民謡などのBGMも温かくて楽しい。
たぶん描きたかったテーマは「子どもを持つということ」ではなく“閉じている”状況とは何か、そこから“開いてゆく”ことの大切さであり、その道具立てとして子どもが利用されているのだと思う。そして、“開く”ための道具として子どもというのはいかにも強力なのだ。
十数年前の自分と対峙して結果的に痛い目を見るよりも、子どもを持たぬ人が将来生まれる孫に思いを馳せるほうが、よっぽど“開いている”といえるのかも知れない。また、昔のように恋愛と出産がイコールではない世の中ではあるが、そんな自由な価値観こそが実は“閉じる”状況を生んでいるのだという皮肉も感じさせてくれる。
してみると人類最悪の発明は、コンドームなのかも知れない、なんて思いつつ、閉じている自分に嫌気がさしたりもするのである。
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