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2006/03/20

息子の部屋

監督:ナンニ・モレッティ
出演:ナンニ・モレッティ/ラウラ・モランテ/ジャスミン・トリンカ/ジュゼッペ・サンフェリーチェ/ソフィア・ヴィジリア/シルヴィオ・オルランド

30点満点中18点=監4/話4/出4/芸3/技3

【長男を亡くした家族、その再生への道】
 精神分析医のジョバンニは、仕事も順調、ジョギングで汗を流すなど体調も問題なし、妻パオラ、娘イレーネ、息子アンドレアとともに幸せに暮らしていた。だがある日曜日、アンドレアがスキューバ・ダイビング中の事故で死んでしまったことから、少しずつ歯車が狂い始める。診察中に患者の前で泣き出すジョバンニ、泣き暮れるパオラ、バスケットボールの試合中に乱闘を起こすイレーネ……。そんなとき、アンドレア宛に1通の手紙が届く。
(2001年 イタリア)

【いかにして折り合いをつけていくのか】
 もし大切な人が死んでしまって、二度と会えないとしたら?
 後を追うのでないとすれば、とりあえず、なんとか自分の心にある喪失感と折り合いをつけていくほかない。「時間が解決する」なんていうのは戯言で、折り合いに注ぎ込むパワーこそが解決への道となる。パワーを持ち得なければ、時間に意味はない。ましてや「神の思し召し」なんて、なんの慰めにもならない。

 本作で描かれるのは、まさに折り合いをつけていく過程。いらだち、怒りをぶつけ、泣き、そうしたって取り戻すことなどできないと知りながら、そうするしかない様子。
 加えて、主人公ジョバンニが精神分析医という設定ゆえに、それぞれに問題を抱えた患者が登場する。強迫観念に憑かれた主婦、序列をつけることでアイデンティティを保つ紳士、衝動を抑えられない男、あることがきっかけで自殺願望から逃れるオスカー……。彼らの言動が、人が生きること死ぬことの不思議さを考えさせる
 アンドレアの葬儀のシーンも強烈だ。ハンダで焼き付けられ、ネジで締め付けられる棺桶のフタ。悼むべき死が“作業”に置き換えられる残酷さと滑稽さ。
 裕福で、家族揃って食卓を囲み、みなスポーツ好きという明るく健康的な家庭というのも、訪れる冷たい哀しさを助長する。

 重厚なテーマの割に極度に重苦しくならず、かつ白々しくならずにすんでいるのは、役者たちのあまり演技くさくない自然な振る舞いのせいだろう。
 各場面の描写もまた、さりげなさが味となっている。ジョバンニに軽く会釈するカフェの店員とか、試合中の娘を涙目で見つめるジョバンニと、その姿に気づいて立ち尽くすイレーネとか。セリフによる説明過多にならず、雰囲気と表情で多くのことを伝える作りだ。
 時間の軽快な積み重なりも面白い。1シーンあたりのカット数はかなり少ないのだが、そのぶんシーン数が多く、結果として「場面の連続としての人生・生活」を紡ぎ出し、「出来事が場面として記憶に残る」ことが表現されている

 そうした“生活・人生”と“記憶”は、「もしあのときこうしていれば、息子を失わずにすんだものを」というジョバンニの架空の回想でも印象づけられる。どれほど後悔すれば、実際にはなかった“生活・人生”と実際に起こってしまった“生活・人生”、偽りの“記憶”と本当の“記憶”、そのギャップに折り合いをつけられるのか。

 結局、折り合いのためのパワーを生む源となるのは「認めること」なのだろう。確かにそこに、その人は生きていた。まったく存在しなかったわけではない。そう認め、苦しみながらも折り合いをつけていくことが、逝った人にものこされた人にとっても、最善の道なのではないだろうか。
 とはいえ自分もまた、「きっと、こんな未来があったはずなのに」という妄想との折り合いに苦しみそうだ。詮無きことではあるのだが。

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