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2006/07/21

ハウルの動く城

監督:宮崎駿
声の出演:倍賞千恵子/木村拓哉/神木隆之介/我修院達也/原田大二郎/大泉洋/加藤治子/美輪明宏

30点満点中16点=監3/話2/出4/芸4/技3

【呪いで老婆になった女性と、悲しき魔法使い】
 開戦が近づき、魔法使いたちにも召集状が届くが、「美しく生きる」主義のハウルは気乗りせず、弟子のマルクルとともに、火の悪魔カルシファーが操る動く城で彷徨う。そこへやって来たのは、荒地の魔女の呪いによって老婆に変えられたソフィー。彼女は、強力な魔法にのめり込むことで人としての心を失いつつあるハウルを救おうとする。だが、ハウルの心臓を狙う荒地の魔女、ハウルの師匠で国王の部下でもあるサリマンの追っ手が迫る。
(2004年 日本 アニメ)

【意外にもこれは、ダメ・サラリーマンの物語だった!?】
 恥ずかしながら、いちど観ただけでは理解不能だった。ストーリーが、というよりも「何を描こうとした映画なのか」がわからなかったのだ。
 2回観れば、と思ったのだが、いまいちピンと来ない。さすがに物語は、上記あらすじにまとめたような形で脳内整理されたのだが、相変わらず「これは何なのか」というモヤモヤが、ある。

 アニメーションとしての仕上がりには、ジブリらしい丁寧さと密度を感じる。衣服の揺れ、風、人物の立ち居振る舞いなど動きの細かさは相変わらず上質で、肩への微妙な力の入りかたや呼吸の大小までをキッチリと絵にしている。モノの質感、舞台の明るさ暗さもしっかり再現され、雪山、海、空の色といった背景美術も美しい。

 声の演技も上々だ。
 倍賞千恵子は数十年の年齢差を、美輪明宏や加藤治子は“得体の知れないおばちゃん”を貫禄で演じ切る。我修院達也はいじましい火の悪魔そのものだし、原田大二郎も犬そのもの。フツーの子をフツーに演っていた神木くんも含めて、ポテンシャルの7割だけを使った“ゆとり”演技、余裕のようなものが画面から漂う。アイドル=木村拓哉も、哀しさを抱えながらカッコつけてる馬鹿ハウルには適役だろう。

 で、そのハウルのキャラクター設定がよくわからない、というのが、自分が混乱した要因だったのだなと気づいた。
 恐らく「流れ星経由で強大な力を手に入れ、代償としてハートを喪失。孤独による寂しさを感じないですむため、この交換は好都合でもあった。ところが、力を手に入れて自由に生きられるはずが、魔法使いは多くの呪いや誓約に縛られている。せめてプライベートは美しく奔放に過ごしたい。そうすることで人を傷つけたり人から傷つけられたりすることもあるが、ハートがないので苦痛を感じないですむ」という人物・状況・設定なのだろう。
 ところがどこかに人としての部分を残していて、魔王と化していく自身に諦めを感じながらもがき苦しんでいる、といったところか。ダークサイド一歩手前のジェダイだな。
 それはいいんだけれど、こいつはソフィーが本当に好きなのか、どこまで切実にソフィーの出現を待っていたのか、これまでにどれくらい苦しんできたのか……、そうした“人としての哀しさ”が十分に描けていない。そのために魅力が半減しているというか「だからコイツは何なのよ?」という困惑が先に立って映画理解の混乱に直結してしまっている。

 ソフィーの扱いにも納得がいかない。軍人嫌いの素振りを見せ、いつも地味な服ばかり着ている自分自身へのコンプレックスが老婆への変身後に「前より似合っている」と自虐的なセリフを吐かせ、お店での顔がどこか憂鬱だったのに対して星の海や花園では表情を輝かせ……と、チマチマあくせくビクビクと暮らしたくはない、自然と平穏の中でゆっくりと過ごしたい、と考えている人物であるのはよくわかる。その点、キャラクター設定はハウルの何倍もしっかりとしている。
 が、とにかく喋りすぎ。不自然なまでにひとりごとが多すぎ。状況説明をすべてソフィーのセリフですませてどんどん話を先に進ませ、1つ1つのエピソードに奥行きを欠いていること(その結果として何を描こうとしたのかがわかりにくくなっていること)が、とても気に障るのだ。

 どうやら「原作を読まないとわからない部分が多い」という声もあるようだ。が、そもそも海外製ファンタジーには読んでもわからない部分が多い。われわれ日本人とは異なる価値観がベースとなって作られる不可解な人物と物語、どこか破綻しているように感じられる展開。本作もまた然り。ひょっとしたらアチラの人たちにはハウルの性格もソフィーのお喋りもスンナリ受け入れられるのかも知れない。
 宮崎駿には、その違和感をそのまんま日本で映像作品にすることに躊躇はなかったのか、それとも彼なりに日本のファミリー層向け“翻訳”を施したのにこんな風になってしまったのか、あるいは「とりあえず今回は海外でウケそうな感じで」という作りだったのか。いずれにせよ、主要登場人物ふたりの扱いのマズさが「何を描こうとした映画なのか?」という疑問を生み、物語を咀嚼するのにパワーを要求する因となっているのは確かだ。

 ただ、これは100パーセント空想ではなく、われわれが住む世界(または日本)と地続きの場所、連続した時間軸の中、たとえば「アメリカは訴訟社会」と同じくらいの近さにあるお話であることは間違いない。だって距離の単位としてkmが用いられ、魔法使いの存在が生活に密着していることも示されているのだから。
 そんなわけで、いっそのこと、ハウルを夫、ソフィーを妻、マルクルを息子、荒地の魔女を姑、マダム・サリマンを夫の勤め先の上司、国や国王を取引先、かかしのカブを近所に住む役人、動く城を単身赴任や転勤の象徴だと考えてみる。すると広がる、わかりやすき世界。
 つまり『やりたくない仕事、会社に尽くす毎日。郊外に素敵な一軒家を建てたが、転勤は多く、上司からもらったペットにプライベートまで監視されている気分。母親は口うるさく、やがて呆け始める。こんなはずじゃなかったのに……』という、サラリーマンの悲哀をファンタジーに仕立てた物語。自意識を殺してロボットとなり、無心で仕事に勤しめば楽かも知れないと考えてそうするが、どこか空しい。そして、その空しさを晴らすのは家族であると気づく。
 そう解釈すると、意外にもしっくりくるのは、自分だけだろうか。

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トラバ失礼しますm(_ _)m 「木村拓哉」で検索してきました。よろしければ遊びに来てください〜 [続きを読む]

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