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2006/08/14

ランド・オブ・ザ・デッド

監督:ジョージ・A・ロメロ
出演:サイモン・ベイカー/ジョン・レグイザモ/ロバート・ジョイ/アーシア・アルジェント/デニス・ホッパー/ユージン・クラーク

30点満点中17点=監4/話3/出3/芸3/技4

【安全なはずの街が、ゾンビと裏切り者に取り囲まれる】
 死者が蘇ってゾンビと化し、人々を襲い始めた世界。生存者たちは川に挟まれた町に立て篭もって暮らしているが、そこは、高層ビル=フィドラーズ・グリーンに住む実力者カウフマンが支配する貧富の差が大きい社会。待遇に不満を募らせた物資調達係のチョロは、装甲車を奪ってカウフマンを脅迫する。ライリーは、相棒のチャーリーや娼婦のスラックらと事態解決を目指すが、知能を身につけたゾンビの群れが町へと迫りつつあった。
(2005年 アメリカ/カナダ/フランス)

【本家本元が作ったのは、正統派? それとも異端?】
 当ブログでは何本もゾンビ映画を取り上げ、そのたびにケチをつけてきたような気がする。が、今回はゾンビ映画としての批判を許さない作品。何しろ本家本元のロメロなんだから。何がどうなっていようが、これこそが正真正銘のゾンビ映画なんである。

 ところが思いのほか、ゾンビ映画にはなっていないと感じた。
 以前、ゾンビ映画のルールとして「襲われる恐怖、追い詰められる恐怖、自分もゾンビ化してしまう恐怖、愛する人がゾンビ化する恐怖、誰が敵なのかわからない恐怖、極限状態に置かれることによって信頼関係が破綻する恐怖……などを描かなければならない」をあげた。
 このルール、まさしくロメロの『ゾンビ』から読み取ったものなのだが、本作にこれらの要素は申し訳程度に散りばめられているだけ、どちらかというと「ゾンビを題材にしたアクション映画」の趣となっているのだ。

 いや、新しいアイディアをいくつも盛り込むなど、ゾンビ映画の魅力をさらに高めようとチャレンジした映画、と評価すべきだろうか。
 今回の大テーマである「知能を持ち始めたゾンビ」という設定はもちろん、顔に負ったやけどのおかげでゾンビに間違われる男、見せ物にされるゾンビ、ゾンビに驚くゾンビ、花火に見とれるゾンビなど、「なるほどねぇ」とニヤリを誘う部分は多い。
 また、叫びながらゾンビを撃退するバイカー、銃撃関係の特殊効果、主人公vsゾンビvs裏切り者という図式、知能を持ち始めたゾンビならではのユニークな行動……など、「シチュエーションを生かした展開」や「アクション映画としての面白さ」にも注意が払われている。

 ゾンビって単に蘇った死者というだけの存在じゃないんだよ、とのメッセージも読み取れる。
 なぜゾンビは作業着姿の労働者やカーディガン姿の主婦ばかりで、ホワイト・カラーらしき者がいないのか? それは、ゾンビ=生ける死者=搾取されるブルー・カラー、しかも社会の最底辺に暮らす人たちを意味しているのではないか。
 その暗喩をより明確なものにするために、本作にはフィドラーズ・グリーンやカウフマンといった「搾取する側」が置かれる。ライリーたち物資調達係や娼婦スラックは、ブルー・カラーの犠牲のうえに生活が成り立っているが、自身たちもまた支配層から虐げられる中流層的位置づけだ。
 つまり人類とゾンビの戦いは、結局のところ現実社会における弱者と弱者の毟りあいにすぎず、本当の強者=知的(を自認する)人類=権力者たちは高みから見ているだけ、という構図こそが(少なくとも本作における)ゾンビ映画の本質なのだ。

 これまで最底辺層のゾンビたちは、知能を持たず、ひたすら自分たちの上にいる者を食おうとして、あるときは成功し、あるときは失敗しつつ、それでも戦いをやめようとしなかった。
 だが下手に知恵を持ったばかりに、そのガムシャラで考えなしの歩みに疑問を感じ、けれど打開策を見つけられるほど頭は良くないので、叫びながら行き場を求めて彷徨う。
 そういう、現代社会の縮図を描いた映画のように思えた。

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