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2006/10/31

理想の恋人.com

監督:ゲイリー・デヴィッド・ゴールドバーグ
出演:ダイアン・レイン/ジョン・キューザック/クリストファー・プラマー/ストッカード・チャニング/ダーモット・マルロニー

30点満点中15点=監3/話3/出3/芸3/技3

【傷心の彼女と彼。ネットで見つけた新しい恋の行方は?】
 夫の浮気が原因で離婚したばかりの保母サラだったが、早くも園児の父親ボビーといい雰囲気に。さらに、おせっかいな姉が出会い系サイトにサラの情報を登録したことからデート三昧の日々。しかし、相手は変人ばかり、ボビーの浮気も気がかりだ。そんな時、サイトを通じて出会ったのはやはり妻に捨てられたばかりのジェイク。ふたりは親密になりつつあったが、間の悪いハプニングがいくつも重なってすれ違いの関係に……。
(2005年 アメリカ)

【悪くはないんだけれど、気軽に楽しめない】
 愛のやり取りへと至る過程、というか、間の悪さを乗り越えたところに恋愛はある、ということを描いた映画。
 出会ってスンナリ成就する恋なんて、そうそうないんだよね。タイミングとか、たがいの性格とか、おせっかいな周囲とか、他人の思惑とか、いろんなことがカセになる。

 そういう意味では、さまざまなアクシデント、ゲイのカップル、年をごまかして出会い系サイトに登録する人とその遭遇……など、それなりにテーマを考えさせるファクターを散らしてあって、悪い映画じゃないと思う。
 映画の原題は『MUST LOVE DOGS』。犬好きな人っていうのは確かに人物を見極めるための尺度として機能するのかも知れないけれど、むしろ人間と犬との間にある「人間が一方的にコミュニケーションを取れているように思い込んでいる」という関係を考えさせる。なるほど人間どうしだってそんなものかもね、なんて思いを巡らせたりして。

 が、コメディなのに絵が暗くてテンポも中途半端で空気も重いのが難点。なんだか文芸作品のノリ。その「作りの硬さ」が足を引っ張って、気軽に楽しめないものになってしまっている。
 この手の映画って、あれやこれや考えなくてもキャハハと見られる(その中で、ハッと人生の真理に気づく)雰囲気作りを徹底しなきゃならないのに。
 タイトルはイマ風だけど、中身はちょっとカビ臭い映画だ。

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2006/10/28

亡国のイージス

監督:阪本順治
出演:真田広之/中井貴一/勝地涼/豊原功補/吉田栄作/谷原章介/チェ・ミンソ/岸部一徳/原田芳雄/寺尾聰

30点満点中14点=監3/話2/出3/芸3/技3

【乗っ取られたイージス艦を取り戻せ!】
 海上自衛隊の護衛艦イージス「いそかぜ」が、テロリスト・ヨンファの策略と乗組員の反逆によって占拠され、東京湾へ向かう。ミサイルの弾頭に積まれているのは、わずかな量で多くの人を死に至らしめる最新の化学兵器GUSOH、その照準は東京。退去させられた先任伍長の仙石は単身で艦に戻って奪還を試みる。政府、自衛隊情報部DAIS、さらには謎の工作員・如月行らの思惑が絡み合う中、刻一刻と東京に危機が迫っていた。
(2005年 日本)

【無理が多くてカッコも悪い】
 手順や組織やルールの馬鹿馬鹿しさ、イデオロギーを持つことと持たぬことの愚かさ、自衛隊法や戦争や平和漬けの日々の意味……。そうしたことをエンターテインメントの中で語ろうとして失敗したコメディ

 うん、そのあたりが妥当な評価だろう。
 やりたかったことは、おぼろげながらわかるのだ。お話のはしょりかたやフラッシュバックの使いかたはマズマズで語り口にはテンポの良さがあるし、短いセリフでキャラクターの立場を説明してみせたりなど、いい部分もそれなりにはある。
 でも、立ち位置がふらつくというか、「こういうものを作るんだ」というパワーや意気込みが持続せずに、腰が甘くなってしまった印象。あるいは、余分なものを詰め込まずにスピードを重視した結果、必要なものまで失われてしまった、という感じ。

 たとえば、あの女の子が出てきた意味は? 反逆者やテロリストたちの背景は? 仙石はなんでそこまで必死になれるの? 誰も知らない点検用のドアなんてありうるのか? 読んでねーけど原作の如月って、たぶんもっとミステリアスでカッコいいだろ? 政府、なんもしてねーじゃん。なんもしてねーのに、ハイ解決って都合よすぎねーか?
 「人間なら撃つ前に躊躇する」っていうキーワードも十分に生かされているとは思えないし、「たまたま居合わせた家庭に問題のある命知らずのバカが単身で敵に挑む」っていうフォーマット、使い古されてて萎えるし。
 それにクライマックスのアレはね、さすがに笑っちゃったもん。

 設定や展開だけでなく、演出的にも(一応は最後まで観られるくらいのクォリティではあったが)不可の部分が目につく。
 大事なセリフもふつうの会話も1カットの中に収めて同じようなトーンで撮るのでメリハリがない。陸上も艦内も同じサイズで撮るので、やっぱりメリハリがない。船なんて、船らしく動いてこそ船のはずなのに、空気感とか広がり間とか動きとかが、陸上と区別のないものになっている。
 スクリーンへの人・モノの収めかた、さらには芝居にも、どことなくB級特撮モノっぽさ、いってみれば『ゴジラ』っぽさが漂う。アクションに新鮮味がなく、総じて絵作りに大仰さが足りないのは、エンターテインメント作品として致命的だろう。

 タイトルだけがカッコよくて、それ以外にカッコいい部分のない映画だ。

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2006/10/27

マイ・フレンド・メモリー

監督:ピーター・チェルソム
出演:エルデン・ヘンソン/キーラン・カルキン/ハリー・ディーン・スタントン/ジーナ・ローランズ/ジリアン・アンダーソン/ミート・ローフ/シャロン・ストーン

30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3

【落ちこぼれと難病、ふたりの少年の出会い】
 大きな体に似合わず大人しい性格、勉強もできず中学1年を二度もやり直している落ちこぼれのマックス。父は殺人で服役中だ。その隣に越してきた同級生のケビンは難病に侵されており、ひとりで歩くこともままならない。父は病気の事実を知って失踪。だがケビンは、たっぷりの知恵と知識を蓄えていた。ふたりは、脳と足、たがいに足りないものを補いあい、騎士として勇敢に生きて行こうと誓うのだが、ケビンの病は進行をやめなかった。
(1998年 アメリカ)

【恐れるな。正しいと信じて行動することが君自身を作る】
 画面1つ1つに無駄がなく、かといって過分な省略もされておらず、適確なタイミングで必要なカットが挿入される作りがいい。
 そう、主人公ふたりが騎士として生きて行こうと決意したなら、その決意にヒヤヒヤとする周囲の姿が描かれなくてはならない。決意を実行したふたりに温かな笑顔を投げかける人々を散りばめなければならない。そうした配慮がキッチリと効いているから、安心して見ていられるのだ。
 ストーリー(前半に比べて後半はやや乱暴な展開になったことが惜しまれるが)に合わせて要所要所で、中世の騎士や馬の姿が挿し挟まれるのも素敵で、この演出プランが感情移入度を倍化させる。ケルト~アイリッシュ系の楽器・旋律をフィーチャーしたトレヴァー・ジョーンズの音楽も画面にマッチしている。

 出演者たちの演技や存在感も上々だろう。おどおどしたマックス役エルデン・ヘンソンといい、難病に蝕まれた人ならではの“命の青い輝き”を体現しているキーラン・カルキンといい、まったく、アメリカにはこれくらいの才能がゴロゴロしているのだと思うと、ちょっとイヤになってくる。
 マックスの祖父役ハリー・ディーン・スタントン、祖母役のジーナ・ローランズ、ケビンの母親を演じたシャロン・ストーンが、出しゃばらず、子どもたちふたりの引き立て役に徹したことも本作が成功した要因だろう。

 そして、この映画でとにかく印象づけられるのが「視線」。これほどまでに「視線」を感じさせる映画も珍しい。見上げる、見下ろす、見つめあう。そうした目の動きが忠実に画面作りにも生かされ、くっきりと、いま観客が見るべきもの、登場人物が見ているものが切り取られる。
 そこから浮かび上がってくるのは、本作のテーマ。誰かからどう見られているかというのは、そりゃあ確かに気になるもの。けれど、どう見られるかは容貌や生まれ育ちではなく「どう行動するか」に拠る。騎士としての価値が行動で決まるように、人間としての本質も行動に拠るのだ。

 足りないものを補いあって成立する人間関係や社会、「異」なるものとの交流による成長、という物語の大枠の陰に「恐れるな。正しいと信じて行動することが君自身を作る」というメッセージが込められ、そのメッセージに光を感じ、生きていく力を与えてもらえる。良作である。

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2006/10/25

ROCK YOU!

監督:ブライアン・ヘルゲランド
出演:ヒース・レジャー/シャニン・ソサモン/マーク・アディ/ポール・ベタニー/アラン・テュディック/ローラ・フレイザー/ルーファス・シーウェル/クリストファー・カザノフ/ベレニス・ベジョー/ジェームズ・ピュアフォイ

30点満点中18点=監4/話3/出3/芸4/技4

【貴族よりも貴族らしく、槍試合を駆け抜ける青春】
 中世ヨーロッパ。槍試合出場のため諸国を巡るエクター卿に従者として同行するウイリアムは、主人が死亡したため卿になりすまし、本来は貴族にしか許されていない試合に出場する。その後も貴族を騙って各所を巡り、連勝を続けるウイリアム。貴人の娘ジョスリンとの出会い、卑怯なアダマーとの確執、好敵手コルビルとの信頼関係などを通じて成長し、本物の貴族たろうとするウイリアムだったが、出生の秘密が壁となって立ちはだかる。
(2001年 アメリカ)

【各要素が上手にまとめ上げられた、いい娯楽作】
 映画にしろ小説にしろ「ストーリー」の中で描かれるもの・目指すもの・行き着く先は、たいていの場合、アイデンティティの確立か、愛か、事件、ということになるだろう。
 その3つをバランスよくミックスさせて質の高い娯楽作に仕上げてある。

 まずはアイデンティティの部分。幼い頃からの夢だった騎士・貴族(というよりも、いっぱしの男)へと突き進むウイリアムの成長と葛藤は、どこか三谷幸喜版の近藤勇を思わせる。「やるんだっ」という決意はちょっと唐突にも思えるが、そんなウイリアムの青さが清々しさとなって映り、勝つことと同等以上に正義や男気を重視していることも伝わってきて、悪くない。

 続いて恋愛関係。ウイリアムとジョスリンが互いの心を確認しあう際のセリフはやや回りくどく、もう少し“身分違いの恋”という切なさが出ていてもよかったと感じるが、これまた若くて不器用なウイリアムと、エキセントリックなシャニン・ソサモンの組み合わせが、絵に描いたような青春ラブストーリーの趣で瑞々しい。

 そして事件。見るからに敵役のアダマーとの関係や試合部分がこれに相当するが、ここが本作最大の見どころだろう。
 いきなりエクター卿が死んでいるところから始める潔さ、競技ルールの説明をサラリと盛り込む上手さが、まずは上等。兄貴分のローランド、騒がしいワット、お調子者のチョーサー、勝気な女鍛冶屋ケイトと、ウイリアムの周辺に配されるキャラクターのわかりやすさもいい。クリスティアーナ役ベレニス・ベジョーも可愛いし。

 全体として、ナイキのパロディをはじめとする単純で頭の悪いコメディっぽいノリがあり、あるいはアメリカンプロレスの舞台裏のような猥雑さやスポーツ・エンターテインメント的な高揚感があり、クイーンなどのロックミュージックもフィーチャーし、そうした“イマっぽさ”と中世という舞台とのミスマッチを楽しませる作り。
 下手をすると各要素が融合せず浮いてしまい、ドタバタ喜劇あるいはコントになってしまううところだが、美術・CGがしっかりと仕事をし、どこか殺伐とした感覚が漂い、意外と腰のすわった雰囲気が醸し出されている。
 撮影・編集の力も大きいのだろう。あるゆる角度からカメラを回し、バッツンバッツンとカットを切ってつなぎ、スローモーションも織り交ぜて、槍試合が持つシンプルな凄み、ガチンコでぶつかり合う迫力を上手に描き出している。

 もちろん監督・脚本のブライアン・ヘルゲランドのコーディネート能力が高いからこそ、こうした各要素をピタリとまとめ上げることができたのだろう。これまで『L.A.コンフィデンシャル』(カーティス・ハンソン監督)以外は、この人の脚本(※)にあまりいい印象はなかったが、今回ちょっとだけ「やればデキるじゃん」と偉そうに見直したりして。
 前述の唐突さや、多彩なキャラクターにもっと見せ場を用意してあげてもよかったなとか、コルビルとの信頼関係だってまだまだ話をふくらませただろうとか、食い足りなかった部分はあり、「これ、30分×26話のテレビアニメにした方が絶対に面白いよな」と感じたのも確かだが、まずは十分に楽しめる娯楽作に仕上がっていたと思う。

※ブライアン・ヘルゲランド脚本作品
 『ブラッド・ワーク』(クリント・イーストウッド監督)
 『ミスティック・リバー』(クリント・イーストウッド監督)
 『ボーン・スプレマシー』(ポール・グリーングラス監督)
 『マイ・ボディガード』(トニー・スコット監督)

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2006/10/22

スライディング・ドア

監督:ピーター・ハウイット
出演:グウィネス・パルトロー/ジョン・ハナー/ジョン・リンチ/ジーン・トリプルホーン/ザーラ・ターナ/ダグラス・マクフェラン

30点満点中17点=監3/話4/出4/芸3/技3

【もし、あのとき、電車に乗れていたなら……】
 プロモーション関連の企業に勤めるヘレンは、些細な理由で会社をクビになり、引ったくりにも遭って顔に怪我を負う。そんな彼女を気遣う同棲相手のジェリーだったが、彼は元彼女のリディアと浮気を重ねていた。「もし、あのとき……」。ヘレンの悔恨と妄想が、もう1つの人生を作り出す。ヘレンが電車に“乗れた場合”に出会う新しい恋と、“乗れなかった場合”のジェリーとの日々、2つのケースを同時進行させて描くラブ・コメディ。
(1997年 アメリカ)

【お気軽妄想コメディにとどめない工夫もある】
 えーっと、どっちがどっちだっけ? あっちが電車に乗れた場合で、こっちが乗れなかった場合。実際には乗れなかったんだから、こっちがホンモノの人生であるわけで……。
 多少の混乱は頭の中で巻き起こるが、どっちがどっちかを意識しないままでも観られるよう、どちらの人生も楽しく軽快に仕上げられている。ヒットナンバーを多用したサウンドトラックに乗せて、テンポよく、適度に「あ~あ~、そんなことしちゃって」と思わせつつ、ヘレンの人生を描いていく。バンソウコウの有無や髪型など、あっちとこっちでヘレンに違いを作った配慮も効いているし。

 どちらのグウィネス・パルトローもキュート。ジェリーとリディアの浮気現場を目撃した際の表情はリアリティたっぷりで笑わせるし、懸命さとか戸惑いとか決意とか浅はかさとか、等身大で演じ切る。そんな彼女をジワジワといたぶる(?)リディア役ジーン・トリプルホーンも抜群の悪女ぶり、そして神出鬼没ぶりにも爆笑だ。

 で、単にお気軽妄想コメディにとどまらないよう、人生に対する含蓄に満ちたセリフが配される。「自分と他人の人生が、ときに絡まることがある。そのときには相手の力になりたいんだ」とか「女は望みを口にしないけど、手に入らないとわかると怒り出すの」とか。
 そして最後には、実際と“もし”の間に横たわるものは果たして何なのかを考えさせるエンディング。笑いの中に、上手に『人生の真理』を織り込んだストーリー・作品であるといえるだろう。

 実際と“もし”の対比における鮮やかさや、“もし”が発生する際の処理の安易さには不満が残るものの、楽しく観られる映画である。

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2006/10/20

コーラス

監督:クリストフ・バラティエ
出演:ジェラール・ジュニョ/ジャン=バティスト・モニエ/フランソワ・ベルレアン/ジャン=ポール・ボネール/カド・メラッド/グレゴリー・ガティニョル/マクサンス・ペラン/ジャック・ペラン

30点満点中16点=監3/話3/出4/芸3/技3

【歌が癒していく】
 戦後間もない1949年のフランス、教師のクレマン・マチューは『池の底』と呼ばれる寄宿学校に舎監として赴任する。そこにいたのは、用務員に重傷を負わせてしまうほどイタズラ盛りの問題児ばかり、校長は体面と出世だけしか考えない俗物。親を亡くし、あるいは親と離れて過ごす子どもたちになんとか純真さを取り戻させようと、マチューは合唱隊を作る。その中心となるのは、やがて世界的な音楽家に育つピエール・モランジュだった。
(2004年 フランス)

【ストーリーはある、だがドラマがない】
 主演のジェラール・ジュニョとラシャン校長役フランソワ・ベルレアン、マチューをサポートする体育教師カド・メラッドらの演技が映画を引っ張っていく。立ち姿、指先、眉の角度にまで意識を集中させて「いま、この心境を表現するんだ」という意気に満ちた芝居だ。
 そのパワーに加えて、ちょっと古めかしいフレーミングや色合い、同録っぽさが強調された音の作りも雰囲気がよく、お話がスムーズに流れていく感覚がある。

 といった点に“感心”はするのだが“感動”はできない
 まずピエール・モランジュが可愛くない。ショタ心が騒がない。ちっちゃなペピノ君が生き生きとしているのに対して、モランジュについては母親との関係が描き込み不足、本人の心の中にある葛藤も消化不良で、扱いがいまひとつだ。アンソニー・ウェイあたりと比べると、それほど歌が上手いとも思えないし。
 また「マチューが赴任してくる前は、学校に音楽がなかった。そのせいで荒みがあった」という描写もあって然るべきだろう。それがないため、ビフォア&アフターの劇的変化に乏しい。
 マチューという「人育てのプロ」が実在して、おかげでモランジュもペピノもいっぱしの大人(老人)へと成長したことはわかるのだが、そこにあるはずの「心と心のぶつかりあい、それによる化学変化」が上手く描かれていないために、「こんな出来事がありました」的な映画にとどまり、どうも盛り上がりに欠けるものとなってしまっている、

 ストーリーはある、しかしドラマが足りない、そんな映画だと感じた。

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2006/10/18

フレッシュ・デリ

監督:アナス・トーマス・イェンセン
出演:ニコライ・リー・カース/マッツ・ミケルセン/ボディル・ヨルゲンセン/リーネ・クルーセ

30点満点中15点=監3/話3/出3/芸3/技3

【肉屋さん開業、そして大繁盛。その人気の秘密は?】
 高圧的なホルガーが経営する肉屋で働くスヴェンとビャン。神経質なスヴェンは妻に愛想を尽かされ、ビャンは脳死状態で寝たきりの弟から生命維持装置を外す決断をしたりもするが、晴れてふたりは自分たちの店を持つことになる。ところが改装のために雇った電気屋をうっかり巨大冷蔵庫に閉じ込めて死なせてしまう。事故を隠蔽しようと、死体をスライスして鳥のマリネとして店頭で売るスヴェン。この商品が大人気、店は繁盛するのだが……。
(2003年 デンマーク)

【ドグマにだって、いいところはある!?】
 あ、この監督ってば『キング・イズ・アライヴ』(クリスチャン・レヴリング監督)のシナリオライターでドグマさんなのか。それ知ってたら絶対に見なかったんだが。

 とはいえ本作は、純ドグマではなく、ドグマのエッセンスを上手く機能させて作られた、という感じ
 ノッペリとしたテンポはスヴェンとビャンに対して「なに考えてんだよ、こいつら」という呆れ感覚を抱かせる作用を果たす。ドグマならではの「余計なことはせずナチュラルに」という意識は、自然光を生かした「まさにそこで事が起こっている」という画面を作り、役者の演技もクローズアップされる。こうした“作り”なら歓迎だ。

 が、ブラックユーモアとしてはちょっと弱いし、寓話としても迫ってくるものが少ないといえる。
 一応は「人への関心、人との関わりが、人を変える」ということがテーマとなっているのだろうと思う。他人に対して“ムカつき”しか感じず、そのせいで相手にも“ムカつき”を与えてしまうスヴェンが、ビャンの双子の弟アイギルとだけは純真に触れ合う。ビャンもまたアイギルというクッションを置いてティナと近づくことで、少し柔らかくなっていく。
 何かと何か、心の中のでっぱりとへこみがピッタリとハマる、そんな瞬間を経て人は変わったり、その場に適応したりするのだろう。

 ということを考えさせるものの、それ以上には残らない映画。

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2006/10/16

親切なクムジャさん

監督:パク・チャヌク
出演:イ・ヨンエ/チェ・ミンシク/クォン・イェヨン/キム・シフ/オ・ダルス/コ・スヒ/キム・ビョンオク/イ・スンシン/キム・ジング/ナム・イル

30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4

【親切、それは復讐への序章】
 ウォンモ君誘拐・殺害の犯人として投獄されたイ・クムジャ。刑務所内でも常に笑みを絶やさず、他の服役囚のために献身的な姿勢を崩さず、やがて彼女は「親切なクムジャさん」と呼ばれるようになる。慰問に訪れた伝道師の心をも突き動かすほどだったが、それは仮の姿。周囲の心を虜にする行為の目的は“恩を売る”こと。出所後、彼女を貶めた事件の真犯人ペク先生に復讐するための計画だったのだ。そしてクムジャが刑期を終える日が来た。
(2005年 韓国)

【悪くはない。でも哀しみと痛みはトーンダウン】
 いわゆる復讐三部作の掉尾を飾る作品。『復讐者に憐れみを』『オールド・ボーイ』にも増して凝った映像が特徴となっている。解像度の高い画面の中にひっそりと配置される○、△、ナナメ。白と紅のコントラストを強調したオープニングも実にグラフィカル。
 時制を入れ替えたり跳んで見せたり、回想の中の人物にナレーションを担当させたり、長まわしがもたらす緊迫感、クラシックやゴスペルに乗せてテンポよく進むシーンなど、演出的にも“凝り”が満載だ。
 ただし、いたずらに見た目優先に走らず、ストーリーもしっかりと追うし、それぞれの演出技法がお話に「!」を与える機能も果たしている。

 そこに佇むクムジャさん=イ・ヨンエが、実に美しい。復讐劇に必要なシャープさは不足しているものの、不幸と苦しみ、決意と“やつれ”をたたえた肌には、そそられるものがある。
 ペク先生役のチェ・ミンシクも、間抜けさと残忍性、淡々とした英語に懇願に諦観と、相変わらず多彩な顔で画面を引き締める。ジェニーを演じたクォン・イェヨンのピュアさは、作品内にホっと優しさを落としてくれる。

 が、ストーリーの衝撃性はトーンダウン。過去2作では「自分の身に降りかかるとは思わなかった意外な運命」に翻弄される人々の、切羽詰ったところにおける復讐や行為が描かれ、しかも先の読めない展開で最後までハラハラと楽しませてくれたが、本作にはそうした尖った部分がない。
 クムジャさんの笑顔や親切が「復讐のため」ということは早々に明らかにされてショックは薄いし、周囲もそれを知っていながら(つまりクムジャさんに利用されているのだと知りながら)彼女に恩返しするというのも多少無理がある。その後のクムジャさんの行動も予測の範囲内だ。

 全体として、自分にとってもっとも大切なものは何か? その何かを守るために犯してしまった過ちと悔恨、その悔恨を振り払うために選んだ行為と完遂の難しさ……といったことを通じて「復讐の価値」を考えさせるストーリーなのだとは思う。そして、クムジャさんの背中に回されるジェニーの腕から「贖罪とは単に『罪を贖う』ものではなく、大切な誰かに包み込まれ許されること」というテーマも浮き上がってくる。

 ただ、そこにあるはずの“痛み”が足りないように感じた。前2作にはあった、グシャっと心臓を鷲づかみにされるようなヤバさがない。また前2作では主に刃物や鈍器が人を傷つけるアイテムとして用いられ、その物理的な痛みと心の痛みがオーバーラップして物語の哀しみを強めていたのだが、今回は銃がフィーチャーされているせいか、それもない。
 結果、クムジャさんへの感情移入度も批判精神も中途半端なまま終劇を迎えてしまう。
 別に悪い映画ではないのだが、あまりにデキの良すぎた前2作と比べられる不幸な運命を乗り越えることはできなかった作品である。

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2006/10/14

ワールド・トレード・センター

監督:オリヴァー・ストーン
出演:ニコラス・ケイジ/マイケル・ペーニャ/マギー・ギレンホール/マリア・ベロ/ジェイ・ヘルナンデス/スティーヴン・ドーフ/マイケル・シャノン

30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3

【惨禍の中の希望】
 2001年9月11日、テロリストにより、NYの世界貿易センタービルに2機の旅客機が激突した。多くの警官や消防隊員と同じく、港湾警察のジョン・マクローリンやウィル・ヒメノらも、負傷者を救出するために建物内へと足を踏み入れる。その矢先、轟音を立てて崩れ落ちるビル。仲間たちは息絶え、ジョンとウィルも瓦礫の下敷きとなって身動きの取れない状態になってしまう。痛みに耐えながらジョンとウィルは、救助を待つのだった。
(2006年 アメリカ)

★ややネタバレを含みます★

【映画の意義と位置と役割とを知る】
 映画本編、あるいはクレジット・ロールやパンフレットからも、かなりの規模でNY市や警察、消防、マクローリンやヒメノ自身、救出にあたった人たちの協力を得たことがわかる。圧倒的な精度で崩壊した世界貿易センタービルを再現したことに加え、彼ら当事者の参加が映画のリアリティを高めることに寄与したのは間違いない。
 そしてその事実が、本作の意義を何よりも示している。

 9・11は確実に、社会レベルでも個人レベルでも世界を変えた。
 私自身、生中継で見た2機目の残像は一生、脳裏から離れることはないだろうし、あらゆる出来事は起こりうるということと、本作にも登場する「乗客のいない地下鉄」が明示するように、一昨日、昨日、今日と積み上げられてきた日常が明日も続く保証などどこにもないことを学んだ。
 わざわざ国家や政治などと結びつけるまでもなく、誰しもの心に何かを刻んだ9・11。そんな、パーソナルな視点・範囲・切り口でこの事件の一場面を切り取ったのが本作だ。

 それゆえ9・11を語る際に重要であるはずの“ビフォア社会とアフター社会の対比”も、前述の「乗客のいない地下鉄」程度。特にビフォア社会の日常はサラリと描かれるのみ。瓦礫の中のふたりと、彼らの身を案ずる家族とをカットバックすることに徹していて、思ったよりも小さく小さくまとめられている。
 たまたま舞台が9・11の世界貿易センタービルであるというだけで、それ以上の意味を持たせることを極力避けているような印象すらある(実際、救助に向かったはずの人が要救助者となる二次災害は、警官や消防士とその家族であれば常に抱えている危険であるはずだ)。

 ところが、パーソナルな物語であるはずなのに、マクローリンやヒメノの人物描写は意外なほど浅い(まぁほとんど瓦礫に埋もれているだけだし)。
 出勤前に子どもたちの寝顔を確認するマクローリン、生まれてくる第二子の名前について悩むヒメノなど家族とのつながりは最小限描かれるし、マクローリンが実直で信頼すべき上司であることも語られ、ヒメノ=マイケル・ペーニャのパトロールぶりは警官そのものに見えるが、それほど突っ込んで描こうという意識は感じられない。死と背中合わせで数時間を過ごした経験が彼らの心に落としたであろう闇にも言及されない。
 マクローリンもヒメノも英雄ではあるかも知れないが、決してスペシャルな存在ではないという立ち位置。痛ければ泣きわめき、あっさりと観念してしまう“人間”であるという前提。

 演出的にも手堅く正攻法、あるいは地味といっていい。スローモーションや音楽によるテンションの上げ下げはあるものの、大きく文法を崩したり意表を突いたりするようなことはなく、必要以上にドラマティックに盛り上げたり誰か個人を主役として祭り上げたりするような雰囲気は、まるでない。

 そういった姿勢を貫くことで浮かび上がってくるのが、仕事でも任務でもなく、当たり前のように「そこに助けを求める人がいるから助けに行く」という人々の行動だ。
 未曾有の大惨事にあって、どれほど多くの名もなき人々が、使命に突き動かされて、危険を顧みずに、この場所へと飛び込んだことだろう。
 もちろんそこには警官・消防士・軍人・看護士といったプロフェッショナルとしての職業意識もあったろうが、むしろ、個人の資質というか、役立つ能力があるから役立てるというシンプルな動機を強く感じた。警官や消防士だからではなく、酸素マスクを扱えたり救命の知識があるから、その力を発揮する。そうした行為に感動を覚える。
 いわば“持てる者のノブレス・オブリッジ”といったところだ。

 恐らく歴史の教科書には、事件のあらましと、せいぜい犠牲者の数しか記されないことだろう。だがその陰に、懸命に(でも当然の行為として)救助にあたった人たちと助け出された人たちがいるという事実をしっかりと記録しようとした映画が、ここに存在する。
 世界はクソだけでできているわけではなく、こうした輝かしい人たちによって支えられており、だからこそ守るべきなのだというメッセージを感じて涙する。

 これは、いわば人間賛歌である。「助けられてよかった」ではなく「僕らが助け合う生き物でよかった」という映画である。そしてアメリカでは、その輝かしくて守るべき世界の象徴として、映画という文化があるのだろう。そんな意識が強く根づいているからこそ警察も消防隊も、協力を惜しまなかったのだ。
 確かに、僕らが助け合う生き物でよかった。そういう感動がある。と同時に本作は、ある意味で、人間社会における映画の意義と位置と役割とを知ることのできる作品であり、そんな作品に出会えたことに対する感動もある。

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2006/10/13

ブラザーズ・グリム

監督:テリー・ギリアム
出演:マット・デイモン/ヒース・レジャー/ピーター・ストーメア/レナ・ヘディ/ジョナサン・プライス/モニカ・ベルッチ

30点満点中15点=監3/話2/出4/芸3/技3

【ペテン師の兄弟が魔女伝説に挑む】
 1800年代初頭、フランスの統治下にあったドイツ。魔女や幽霊などの民間伝承に怯える人々を助けるのは、ウィルとジェイコブのグリム兄弟。だが実は小道具と手下を使って魔物を作り上げ、それを退治してみせるというトリックで金を儲けるペテン師たちだった。からくりがバレてフランス軍に拉致された彼らは、幼い女の子が次々と姿を消す事件の解決を命じられる。事件の舞台・マルバデンの森は、本物の魔女伝説が残る地だった。
(2005年 アメリカ/チェコ)

【設定を生かしつつもフツーのアドベンチャーにとどまる】
 いまも親しまれている数々の童話をのこしたグリム兄弟が、執筆前にしていた仕事と出会った事件、という設定から考えられる範囲でいろいろと遊んでいる。『赤ずきん』に『白雪姫』に『ヘンゼルとグレーテル』、ペロー作の『シンデレラ』っぽい場面まで。グリム童話に疎いのでそれ以上はわからないが、恐らくはもっと詰め込まれているのだろう。

 が、それ以上ではない。なによりギリアム監督らしさが少ない
 いや、それっぽいところはあるのだ。広角レンズでナナメに切り取られたアングルとか、隅々まで露出と色合いをコントロールすることで作り物臭が強くなった画面とか。
 絵画的・挿絵的なイメージの連続は確かにギリアムっぽいし、音楽の使いかたで笑いをとる遊び心などはこの監督ならではのものだろう。怪物発見器などのガジェットも楽しい。

 でも、毒というか、「こいつ、トチ狂ってるよな」と強烈に思わせる部分がなくて、これなら他の人でも撮れるんじゃないか、と感じてしまう。兄弟の心情とか性格形成に関してもあまり掘り下げられることはなく、表層的なストーリーとなってしまって哲学もない。つまりはフツーに楽しい(いや、あんまり楽しくないか)フツーのアクション・アドベンチャーだ。

 見どころは役者だろうか。といっても、この作品の中で唯一「イっちゃってる」役柄=カバルディを演じたピーター・ストーメアと、魔女ですといわれれば納得するしかない神秘的な美しさをたたえたモニカ・ベルッチの存在感が突出している、という意味で、だが。

 そして、すべてはキスで終わり、世は事もなし。フツーに楽しめるが、それはすなわち、後に残らない、ということを意味する。

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2006/10/09

ヴェラ・ドレイク

監督:マイク・リー
出演:イメルダ・スタウントン/フィル・デイヴィス/ダニエル・メイズ/アレックス・ケリー/エディ・マーサン/エイドリアン・スカーボロー/ヘザー・クラニー/ピーター・ワイト/ルース・シーン/レスリー・シャープ/ジム・ブロードベント

30点満点中18点=監4/話3/出5/芸3/技3

【心優しい主婦が重ねてきた秘密の日々】
 1950年代のロンドン。自動車修理工の夫スタン、洋服店に勤める長男シド、口数の少ない長女エセルとともに暮らす家政婦ヴェラ・ドレイク。エセルは好青年のレジーと交際を始め、スタンの弟フランクには待ち望んだ子どもが生まれそう。幸せな日々を送る心優しい彼女には、実は“裏の顔”があった。望まぬまま妊娠してしまった女性からの求めに応じ、堕胎を請け負っていたのだ。しかし、やがて彼女の“仕事”は警察の知るところとなる。
(2004年 イギリス/フランス/ニュージーランド)

【淡々とした空気の中に密度が潜む作品】
「ロンドンの○○に住む家政婦ヴェラ・ドレイクが人身保護法違反で逮捕された。約20年に渡り、多くの女性の中絶手術を請け負っていた疑い。うちひとりが施術後に体調不良を訴えて医師の診察を受けたことから発覚した。警察によるとヴェラは容疑を認めており、また報酬はもらっていなかったとのこと。家族はこの事実を知らなかったという」

 いってしまえば、それだけの話である。物語には驚くべき部分も、ヒネったりタメたりしてドラマティックに盛り上げようという工夫もない。ただ出来事が淡々と積み重ねられる
 にも関わらず、とてつもない緊張感に満ちている。序盤、身寄りのない真面目な青年リジーを食事に招待するシーンには、ただの茶飲み話、しかもその後のストーリーには特に影響を与えない場面なのに、ヒリヒリとした空気が漂う。
 その理由がわからない。ただ「なんでもない場面を注視させる圧倒的なパワーを持つ」としか表現のしようがない。

 1つには、周到な絵作りがあるはずだ。カメラは暑苦しいまでに人物に寄り添う。出来事を、俯瞰することはないが、覗き見するという意識を保つ。アパートの窓から見下ろし、苦しそうな表情を見上げるように撮る。その絶妙な角度が緊迫感のある画面を作り出しているのだろう。

 また、なんでもないように思えるシーンにも家族それぞれの暖かさや歴史や価値観をさりげなく埋め込み、また、やや長めのカットを採用して各役者の芝居を大切にしている点も、感情移入を誘う配慮として効いている。

 その役者たちもまた、それぞれの役割をまっとうする。イメルダ・スタウントンについては、いわずもがなだろう。渾身ではあるが必要以上には気張らず「良かれと思いつつ、あるいは罪悪感に目をつぶったまま『仕事』を繰り返し、発覚した際にただただ悲嘆に暮れる平凡な主婦」を、これ以上ないリアリティで演じ切る。有名スターを安易に配しないキャスティングもまた、物語からウソっぽさを排するのに貢献していたように思う。

 そうして知らず知らずのうちに、なんていうことのない話にのめり込み、いや、なんていうことのない話ではないじゃないかと気づかされる。あくまでも淡々と出来事を紡ぎながら、「じゃあ、どうすればいいのか」「命とは何か?」「家族とは?」といった問題提起を目一杯に詰め込んで、観客にそれぞれの回答を強いるのだ。回答を強いられるからこそ緊張感がある、ともいえるだろう。

 ふと「この映画って、子ども(少年・少女)が出てこないよな」と思い至る。子どものいない世界って、いかに寒々しくて、いかに薄い色合いであることか。そんな世界で“普通の家族”がどのようにして小さくも温かな幸せを築き上げているのか、その幸せを守るためにどんな代償を支払わなければならないのか、そうしたことがひっそりと綴られている2時間である。

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2006/10/06

SAW 2

監督:ダーレン・リン・バウズマン
出演:ドニー・ウォールバーグ/ディナ・メイヤー/エリック・ナドセン/ショウニー・スミス/フランキー・G/グレン・プラマー/ディナ・メイヤー/ビヴァリー・ミッチェル/エマニュエル・ヴォージア/トビン・ベル

30点満点中17点=監4/話3/出3/芸3/技4

【連続殺人犯ふたたび。その策略を打ち破ることはできるか?】
 数々の仕掛けで「命を大切にしていない者」を殺し続ける連続殺人犯ジグソウ。被害者の死体から証拠をつかんだ刑事のエリックは、犯人の居場所を突き止めて身柄を確保する。が、その隠れ家に並ぶモニターには、エリックの息子ダニエルの姿が。ダニエルは、かつてジグソウから逃れたアマンダら数人とともに仕掛けに満ちた家に拉致されているのだ。毒ガスが次第にダニエルらを蝕み、エリックはその家の場所を吐かせようとジグソウに詰め寄る。
(2005年 アメリカ)

★ややネタばれを含みます★

【意外な面白さ。ただしこれが限界】
 PART2に良作なし、とは、よくいわれること。ましてや前作は、いくつかツッコミどころはあるもののダマシ系ミステリーとして上手にまとめた秀作だっただけに、その続編は「過度の期待をかけずに観る」くらいがちょうどいいだろう。

 が、今回も思いのほか上手に仕上げられていた。さすがにPART1を上回ることはできなかったものの、前作とは異なる意趣を凝らし、前作とは違うアプローチで意外と面白いモノになっている。
 最大の特徴はテンポ/スピード感。いきなりのショッカー場面に始まり、ズドズドと畳み掛けるようにストーリーは展開する。1カット3秒以内(極端なところでは1秒以下)で目まぐるしい。このスピードを最後まで貫き通して、種明かしも躊躇なく流す。
 ただしその“速さ”が“軽さ”とならないよう、オイリーでアンダー気味の画面を作り出して重苦しさを醸しているのが心憎い。
 また全体としてことさらに「痛さ」を強調するような仕掛け・撮りかたとなっていて、そういう場面ではややしつこく状況を映して「うげぇ、早く次のシーンへ行ってくれよぅ」と思わせる。それが効いている。
 で、その次のシーンでも同じように「また何かあるよぉ」「うげぇ」と思わせて、カラクリ屋敷とジクゾウの隠れ家をザッピングするような構成にもなっていて、アドベンチャーゲームのノリで最後まで飽きさせない

 お話としては、貫井徳郎あたりを思わせるトリックでミステリーとして成立させつつも、前作からのテーマである「命についての正しい考えかたとは何か」という部分も残してあって、正統な続編と感じさせる。
 まぁ驚くほど斬新なトリックではないし、「ジグソウってば、これだけのことをやってのける財力と知力があれば人を殺すよりほかにすることがあるだろ」と思わせたりして少々乱暴なところがあるのは否めないが。
 だから謎解きを楽しむというより、スピードと緊迫した空気に身をまかせつつ、ほうほうふむふむ、それでどーなるのよと単純にワクワク(いや、痛そうなんでワクワクはできないんだけれど)して観る映画といえるだろう。その範疇においては、秀作=前作の名を汚さないだけのものに仕上がっていると思う。

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2006/10/03

フラガール

監督:李相日
出演:松雪泰子/豊川悦司/蒼井優/池津祥子/山崎静代/三宅弘城/徳永えり/高橋克実/寺島進/志賀勝/岸部一徳/富司純子

30点満点中16点=監3/話2/出4/芸4/技3

【炭鉱町の起死回生策は、冬の日本にハワイを作ることだった】
 昭和40年、坑道の閉鎖が相次ぐ福島県いわき市の炭鉱町では、起死回生を賭けてハワイを模したリゾート施設が造られることになる。東京から招いたSKDのダンサー・平山まどかのもと、女子高生の紀美子をはじめとする炭鉱町の女性を“プロ”にするための特訓が始められるが、職を失った炭鉱の男たちや紀美子の母千代など、閉鎖的な町の人々はいい顔をしない。まどかと生徒、ダンサーと人々が衝突する中、オープンの時期が迫っていた。
(2006年 日本)

【甘さと頭の悪さの中に、光るものはあるけれど】
 本作を楽しみたいならば、オバちゃんになることだ。後ろの席からは、しずちゃんが出てくれば「わっ、大きい」、床に撒き散らされた髪の毛を見れば「あら、切られちゃってる」、終始オホホ(またはケケケ)という笑い声が聞こえて、存分にこの映画を満喫しているようだった。

 いや冗談ではなく、そういう映画。たとえば鉱山で「2000人がクビ切られるらしいぞ」という会話の後に「2000人に退職してもらいます」というセリフが繰り返され、岸部一徳が方言でまくし立てると「なまりが強くて、何いってるかわからない」という説明が用意され、愛を意味するダンスが披露されれば(前のシーンで、その踊りの意味が明かされているにも関わらず)「あなたを……愛してる…」との解説が入れられる。
 世界がヨン様とホリエモンとハンカチ王子でできていると思っているワイドショー好きのオバちゃんにも理解できるような、懇切丁寧な作り

 その割に、肝心なことは何も描かれない
 物語の中心は、他に行くところのないまどか、狭い町から抜け出したいと願う紀美子、女は炭鉱で働く男を支えるものと信じる千代、3人の“強いオンナ”であるはずなのだが、そのような立場へと自分を置くに至った心情の揺れや、いま何を目指して生きているのかが、まるで描かれない。主役といえる3人の立ち位置が不明確なので、こちらもどこに軸足を据えればいいのか戸惑ったままでお話が進むのだ。
 それ以上に最悪なのは紀美子の兄&千代の息子である洋二朗で、行動がバラバラ。いったい何をしたいのか、この男は。

 また、舞台は高度成長期にあって「変わらなければ生き抜けない」と切羽詰った昭和ニッポンの炭鉱町。そこでの個人の変化が重要なテーマとなっていて、実際に何人かが変化を示すのだが、前置きなしに立場・態度・心情をコロっと変えられても、ねぇ。いきなり「いいオンナになったな」とかいわれても、ねぇ。
 その変化の理由・過程をこそ、タップリと見せるべきではなかったか。

 映画的な面白さ・興奮も少ない
 たとえば、フラガールズたちが食事をしながら、テーブルの下ではステップを練習しているカットのような「それ!」と思わせる楽しさがもっとあったなら。あるいは、本当にスゴイもの・美しいもの(まどかと紀美子のダンス)は“ただそのまんま”撮るべきなのに、わざわざ「すごい」と登場人物に感想をいわせたり、スローモーションにしてみたりといった愚挙を犯さなかったならば。

 奥行きが足りず、工夫も少なく、かと思えば余計なことをしてしまい、結果としてただ状況を追うだけに終始している、という印象。『スウィングガールズ』がガールズたちの質の低いプロモーションだったのと同様に、本作もフラガールズと常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)の程度の低いプロモーションにとどまっている。まぁ最初からそれが狙いの映画なんだけれど。
 比べるのは先方に失礼かとは思うが、炭鉱+ダンスという同じフォーマットを持つ『リトル・ダンサー』(スティーヴン・ダルドリー監督)のほうが映画としても物語としても2億倍くらい優れている(まんま『リトル・ダンサー』をパクっているシーンもあったし)だろう。

 とはいえ、ポイと捨ててしまうには惜しい部分も持っている。
 まずは昭和40年の炭鉱町の再現。これはもう鮮やか。実際にはそんなところに行ったことなんてないんだけれど、寒々として未来のない空気の質までよく出せていると感じた。ダンス練習場にただよう光なんて、昭和そのもの。松雪泰子の化粧・衣装、ゴトゴトと走るクルマ、破れたフスマ、ほつれたニット帽など、細部に渡って「びんぼーな昭和」が徹底されている。
 町の灰色と、ダンサーたちの赤、その対比も(演出意図よりも画面への乗っかりかたが)鮮やかで、長めのカットでもイライラさせない緊迫感と密度感が各画面にはある。
 常磐ハワイアンセンター建設に至る経緯をバッサリ切り、造られること前提でお話を始め、その後も状況説明に時間を割かなかったテンポのよさも評価したい。

 前述の3人の女性を演じた女優たちも見事
 まどか役の松雪泰子は、コントっぽい芝居から涙までの振幅を無理なく表現するとともに、立ち姿が力強く、貫禄の女優ぶり。紀美子の蒼井優は柔軟性と健やかな色気を十分に発散させて、台詞のないカットでも存在感を示した。富司純子は、腰のすわった声で場面を締める。それぞれが、指先と足先、首の角度や口の動かしかた、視線にまで気を配った演技を見せてくれた。
 ワキも、紀美子の親友・早苗を可愛く健気に演じた徳永えり、ふわふわとした初子の池津祥子(この人の出す味って好き)、しずちゃんによるのっそり小百合と、バランスがいい。
 ひとりだけハイカラ、けれど先端には成り切れない松雪まどかを、昭和美人ともいえる蒼井優と徳永えり、昭和の生き残り的なルックスを持つ池津祥子と山崎静代が囲む、というキャスティングの見た目も上々だ。
 クライマックスのダンスも小気味いい。

 そうしたパーツのよさも伝わってくるからなおさら、頭の悪さ、物語とキャラクター背景を練り上げる腕の稚拙さ、いたってフツーの演出といった、作りの甘さが惜しまれる。

 まとめれば、「頼むから蒼井優をオレにくれ!」という映画。

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2006/10/01

プライマー

監督:シェーン・カルース
出演:シェーン・カルース/デヴィッド・サリヴァン/ケイシー・グッデン/アナンダ・アダヤヤ/キャリー・クロフォード/サマンサ・トムソン/チップ・カールス

30点満点中15点=監3/話2/出4/芸3/技3

【過去へ跳ぶと、そこには当然もうひとりの自分がいる】
 ガレージで発明に勤しむアーロン、エイブ、ロバート、フィリップ。だが金になるものを発明することはできず、出資者の態度にも不満が募るばかりだ。ところがアーロンとエイブは、超伝導の実験中、偶然にもタイムマシンを発明してしまう。他のメンバーにはこの事実を伏せ、過去へ跳んで株式で大儲けするふたり。だが、タイムトラベルは「同じ時間に自分がふたり」という状況を作り出し、それが“歪み”を生んでしまうのだった。
(2004年 アメリカ)

【わかりにくい、というだけの映画】
 白のザラつきが目立つ色調と、右-左に人物を配する会話シーンが、どことなく『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督)を思わせる。どこまで意図して作った画面かは定かではないが、『2001年』がそうであったように、本作も「映画ではなく哲学・メッセージ」を目指した作品なのかも知れない。

 ただし『2001年』が視覚・聴覚・触覚へとダイレクトに問題を突きつけてくるのに対し、こちらは脳みそをノックするという感じ。
 また『サマータイムマシン・ブルース』(本広克行監督)が、100人の観客がいれば100人に100パーセント理解させようと、噛み砕いて説明していたのに対し、こちらにはそんな親切心など微塵もない。というか「誰にも理解なんかさせてやるもんか」という気概(?)を感じるほど内向的。パッケージに書かれている「最低5回は観ないと理解できない云々」という言葉はウソではない。

 とはいえ5回も観たいと思える作品ではないので、無理やり理解したつもりになってみる。たとえば……

(1)■■A■■■■■■D■■■■B
(2)■■A■■■■■■■■■■■■■■■C
(3)■■A■■■■■■D■■■■■■■■■■■■■■E
(4)■■A■■■■■F■■■■■■■■■■■■■■■■■■■→

 BからA(つまり過去)へジャンプすると、A~Bの時間には(1)と(2)というふたりの自分が存在することになる。それだけなら大して問題にはならないが、(2)がCからAへと跳んで3人目の自分=(3)となり、さらに(1)をDの時点で殺害してしまったら?
 Bが存在しないことになり、となると(2)も(3)も発生しないというパラドックスが生じてしまう。そこでEからFへとジャンプ、(4)Dでの殺害を阻止することにしてみると……。

 結局のところ、こういうパラドックス(いや、映画内で起きる出来事はこの通りではないんだけれど)を解説なく&細切れの映像で見せておいて「もう1回観て、時間の流れを整理してから、いつ何が起こったかを理解してください」というストーリー。

 哲学的なのと「わかりにくい」のとは別だろう、と思うのだが。ひょっとすると5回観ると、アっと驚くようなパラドックスとその解法が隠されていることに気づくのかも知れないが、脳みその体力を要しそうだ。

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