リリイ・シュシュのすべて
監督:岩井俊二
出演:市原隼人/忍成修吾/蒼井優/伊藤歩/吉岡麻由子/田中要次/大沢たかお/市川実和子/稲森いずみ/阿部知代
30点満点中17点=監4/話3/出3/芸3/技4
【14歳のリアル】
中学へ進み、剣道部に入った蓮見雄一。楽しい学校生活のはずが、友人・星野修介がある日を境として“いじめる側”に立ったことで、彼の周囲にある世界は崩壊する。「エーテルを歌にする」と評されるシンガー、リリィ・シュシュのファンサイトを立ち上げ、そこに集まる人との会話を通じて自己の存在確認と癒しを得る雄一。だがクラスでは、援助交際を強要される津田詩織や男子生徒に襲われる久野陽子など、犠牲者は絶えなかった。
(2001年 日本)
【いたたまれなさ、から、すべてが始まる】
追い詰める側と追い詰められる側。その状況を描き、思わせぶりにバスジャック事件なども挿入して、中学生の心の中身(主に闇の部分)をひっくり返して見せようと、あるいは“いじめ”や“安穏とした世界の崩壊”や自分なりの解決行動へと至る原因・契機を紐解こうとしている……、かに思える本作だが、そこで、たとえば複雑な家庭環境とか暴力的な表現に満ちたゲームとか、具体的なモノゴトをあげつらうのは愚だということを、岩井俊二はわかっている。
本作に登場する担任教諭・小山内は、こういう。
「なぜ、いじめる必要があるの?」
空しく響く言葉であり、また、あまりにも無責任な人物として配されている彼女。だが、彼女でなくとも答えを見つけられない問いだろう。
なにしろ、雄一も星野も詩織も陽子も、つまり当の本人たちにすら、自分たちが置かれた状況や行動の理由を説明することなどできないのだから。傍観者が、理解できるはずもない。
カメラが、人物に極端なまでに近づき、あるいは引き、大きく揺れ、アンダーすぎるほどの露出が徹底されて「他人の表情から心情を読み取る」ことの限界を訴える。
「なぜ、いじめる必要があるの?」
答えを見つけられない問いではあるが、それでもやっぱり答えは必要だ。いろいろと考えて、それは意外にも自分が書いたモノ……当ブログの『バトル・ロワイアル特別編』(深作欣二監督)の感想の中に転がっていた。
「歴史上、中学生や高校生に十分な選択肢が与えられた例はない」
ああ、そうか。彼らに「いじめずにすませる」という選択肢はない、それだけのことなのだ。
もちろん“いじめられる”側が持ちうる選択肢も、少ない。抵抗という道筋はあまりに痛々しく、結果、もっともたやすく、もっとも効果的な2つの道しか残されてはいない。すなわち、従順か、死か。
そして、その根っこにあるのは、いってみれば“いたたまれなさ”。ここじゃない、ここにいたくない、ここにいる自分は自分じゃない。誰もが人生のどこかで味わうはずの、他人には説明できない、理由もなく心の中に浮かび上がってくる、そんな感覚。
たまたま14歳という、選択肢を持たない年頃にその“いたたまれなさ”と出会ったばかりに、「ここじゃない、どこか」を見つけることもできず、ただ目の前に地獄が広がってゆくのを受け入れるばかりなのである。
やがて彼らは、エーテルに、エーテルを歌にするリリイ・シュシュに、つまりは“不確かなもの”の中にこそ確かなものがあるのではないかと思い立って、救いを得ようとあがく、あるいは逃避する。そんなもの、そんなところにあるわけはないのだが。
欲せよ。ただしお前が求めるものは、そこにない。ひょっとすると、お前が見ようとしていない身近なところにあるかも知れないが、お前はそれをつかみ取るだけの力を持たない。
そんな、救いもへったくれもない事実を2時間半かけて強烈に突きつけてくる、あくどい映画である。
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