トゥモロー・ワールド
監督:アルフォンソ・キュアロン
出演:クライヴ・オーウェン/ジュリアン・ムーア/クレア=ホープ・アシティー/パム・フェリス/キウェテル・イジョフォー/チャーリー・ハナム/ダニー・ヒューストン/ピーター・ミュラン/マイケル・ケイン
30点満点中21点=監5/話4/出4/芸4/技4
【破滅を目前にした人類に、ただひとつ残された未来】
流産や不妊が蔓延し、人類に子どもが誕生しなくなって18年、絶望感ゆえに世界が荒廃した西暦2027年。比較的統制の取れたイギリスも、不法入国者の締め出し、対抗するテロ、自殺薬の配給など終末の様相を呈している。元・活動家ながらわが子を失ってからは役人として暮らすセオは、テロ集団FISHのリーダーとなった元妻ジュリアンに通行証を都合するよう依頼される。それはある女性を、そして人類を守るために必要なものだった。
(2006年 アメリカ/イギリス)
【シャンティ! シャンティ! シャンティ!】
人種も言語もゴッタ煮になってうごめく世界に、愛と平和の象徴たるジョン・レノンの声が響き、混沌の権化たるキング・クリムゾンが流れる。そこには何がしかのメッセージとともに、未来を失った世界、もはや懐古しか残されていない人類の姿を読み取ることができる。
やがて奏でられるのは『広島の犠牲者に捧げる哀歌』。人類に葬送のときが近づく。
常に登場する動物たちは「生まれなくなった人間の子どもの代用として動物がより愛玩される存在になった」ことや、「やがて彼らが地上の支配者になる」こと、「人間以外の動物たちには子どもが生まれ続けている」ことを観ている者に知らせる。
数多くの戦争映画に参加し、『サイダーハウス・ルール』では堕胎手術に腕をふるい、近作では「子どもを導く」役割を与えられることの多いマイケル・ケインが、子どもが生まれなくなった世界でマリファナと“ラブ&ピース”に行き着いた(退行した)という倒錯性、あるいは「ジーザス・クライスト!」という叫びの皮肉。
エネルギー省職員のデスクに並べられたオーナメントは誰のためのものだろうか、郊外に散らばる死体は不法入国者かそれとも集団自殺者か、収容所の前で整列させられた人々の行く末は……。
しじゅう聞こえてくる鳥の鳴き声、そのさえずりに傾けていた耳は、終盤である声を聴くために機能することになる。
こうしてさまざまな意味・意図が、各場面からあふれ出す。
相変わらず背景にまで気を配った画面を構築して、1カットたりとも疎かにせず、1秒に1秒以上の重みを感じさせる作りは、まさにキュアロン監督の真骨頂だ。
さらにこの天才は、映画史に残る“技”も見せつけてくれる。
恐らく本作の感想・レビューでは、各所で「長回し」という言葉が用いられていることだろう。が、ここで観られるのは、そんじょそこらの長回しとは訳が違う。撮影監督のエマニュエル・ルベツキ、手持ちカメラのオペレーターとしてクレジットされているジョージ・リッチモンド、彼らの仕事に触れるだけでも大スクリーンで観る価値のある作品となっている。
廃墟を完璧に再現した美術や着弾などの特殊効果も見事。それは、各カットが“やり直しのきかない”撮影であったことも意味する。
丁寧なリハーサルや計算があったからこそ成功したのだろうが、だとしても、あまりに成功しすぎている。「アクション!」の掛け声をキッカケとして手順通りに人やクルマが動き、爆薬につながるスイッチを押し、カメラは撮るべきものを追ったはずなのだが、そうとは感じられず、そこで実際に起こっているアクシデントの真っ只中に放り込まれたような錯覚に陥る。
ひょっとすると、いま、フィルムに神が宿った瞬間を目撃しているのかも知れない、そんなふうにすら感じるほどだ。
筆舌に尽くしがたい出来栄え、そこで描かれる事件の衝撃。
よぉく観ておけボンクラどもめ、長回しっていうのは、こういうことをするために採用されるものなのだ。
数分間にもおよぶ1カットに詰め込まれた僕らの未来、その渦中に叩き込まれることの、“人として”の恐怖と、“映画ファンとして”の快感。しかもそれが、次から次へと押し寄せてくる。
やはりアルフォンソ・キュアロンという人物は、映画に何ができるのか、映画の作り手として何をしなければならないのかを、よくわかっている。
あまりに“作り”が濃密で、かつ、あまりに多くの意図が詰め込まれているため、逆にストーリーが邪魔になる。
これだけ“みせる”こと、“突きつける”ことが巧みな監督なのだから、物語はもっとシンプルにしてもよかったのではないか。原作を相当に改変・省略しているようだが、それでもまだ整理し切れておらず、だから「偶然の立ち聞きで重要な事実を知る」なんていう安直な処理でストーリーを展開させなければならなかったのだ。
ところが、この映画のテーマがあるポイントに向けてグイグイと収束し、何のために作られた作品であるかが明らかとなるに連れて、そんな不満は霧散する。
すなわち、問いかけと、祈りと、再生。
人はすでに動物ですらないのか? ならばトゥモロー号という箱舟に乗る価値は本当にあるのだろうか? このまま破滅の日を迎えるのか? いちど壊すことでしか再生は成し得ないのか? 地球そのものを箱舟にするべきではないのか? そのためには何が必要だ? 海に浮かぶブイの灯のように僕らの行く道を示してくれるものと、その道を信じて漕ぎ出す強い意志ではないのか?
映画を形作るピースのひとつひとつから、僕らへの問いかけを、多くの祈りを、再生へのヒントを感じ取ることができる。
午前中に『unknown』を観て、昼からは同じスクリーンの同じシートで本作を鑑賞。どうやら他にも同志がいたようだ。シネコンならではの楽しみだが、と同時に、僕らの周囲がいかに満たされているか、僕らがいかに“興味のあること”以外に無関心であるかの証左ともいえる。
18年前に生まれたもっとも若い人類が刺殺され、世界がさらなる悲痛に包まれた日。セオは決して満たされているとはいえないが、彼もまた無関心を貫く(無関心を装うのではない、きっと本当に他人や人類の未来に対して関心がないのだ)。
そんな彼が、他者に関心を寄せ、関心を義務感に昇華させ、問いかけに対する答えを探し、祈りの代わりに行動をもって人類再生の道を拓いていく、その様子を圧倒的なヴィジュアルで叩きつけてくるのが本作の姿だ。
僕らがみなセオのように振る舞わなければ未来はない、そういうメッセージなのだ。
そして、エンドロールへ。鑑賞者として当たり前のことなのだが、これから本作を観る人は最後まで席を立ってはならない。
そこにも僕らへの問いかけと多くの祈りと再生へのヒントがある。そのひとことを伝えたいがためにこの映画が作られたことを知ることになる。
無関心と絶望感が破滅を呼ぶとするなら、自分の手の届かないところにも関心を抱き、希望と理想を胸に「自分に何ができるのか」を考えるところから、“それ”への道は始まるのだ。
●アルフォンソ・キュアロン関係
『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』
『天国の口、終りの楽園。』
『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』
『タブロイド』
●終末世界関係
『伝説巨神イデオン 接触編・発動編』
『ソイレント・グリーン』
『12モンキーズ』
『未来世紀ブラジル』
『ゾンビ/ディレクターズカット完全版』
『Vフォー・ヴェンデッタ』
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