« スタンドアップ | トップページ | スケルトン・キー »

2006/12/16

銀河ヒッチハイク・ガイド

監督:ガース・ジェニングス
出演:マーティン・フリーマン/サム・ロックウェル/モス・デフ/ズーイー・デシャネル/ジョン・マルコヴィッチ/ビル・ナイ/ワーウィック・デイヴィス/アラン・リックマン(声)

30点満点中16点=監3/話2/出4/芸3/技4

【突如地球が消滅! 残されたアーサーの冒険が始まる】
 アーサーのもとに慌てて駆け込んできたのは親友のフォード。「実は俺は宇宙人だ。地球はバイパス工事のために、今日消されることになった。君だけでも助けたい」と、天に向かって親指を突き上げる。一瞬にして消失した地球から“ヒッチハイク”によってギリギリ脱出したアーサーとフォードだったが、奇妙な宇宙生物たち、身勝手な銀河系大統領ゼイフォード、いつも憂鬱なロボット・マーヴィンらの行動に振り回されるのだった。
(2005年 アメリカ/イギリス)

【読み解く楽しさを味わえない作品世界】
 原作を読んで「何が面白いのかわからん」と感じたのは、もう20年以上も前のこと。ちょっと成長(?)し、当時とは価値観も変わったはずの、いま、映画という形で触れれば少しは印象も変わるだろう……と思ったのだけれど、やっぱ「何が面白いのかわからん」

 書類社会、人間の尊大さと無責任さ、大統領が持つ権威の意味、身のまわりにある諸々の不愉快、運命論、なあなあ+適当、誰かの都合で一変してしまう生活……など、馬鹿馬鹿しさに満ちた僕らの世界を、縮図にしてスラップスティックにして笑い飛ばそう、という意図のもとに作られたお話なのだろう。とりあえずは、そう理解することにする。

 が、どうにも脈絡のなさが気に障る。いつもなら、作品の中にキーワードを探し、そこから解きほぐすようにして自分なりにテーマや哲学を読み取っていくよう努めるのだけれど、それを許さないようなゴッタ煮感。何かしらのメッセージはあるようだが、それをお話の中に盛り込む手法が行き当たりばったり的に思える。どこまでを笑い飛ばせばいいのか、どこからをシニカルな文明批評と捉えればいいのか、そのあんばいがつかめない。。

 肌ざわりは「デキの悪い『不思議の国のアリス』」といった感じ。アリスもまたゴッタ煮だけれど、めくるめく幻想を味わいながら「自分もこのゴッタ煮の中に溶けてしまおう」と思わせる魅力がある。いっぽうこちらは、目隠しをされてどこの国だかわからないところに連れて来られて、いきなりゴッタ煮の鍋を「食え」と突き出されたようなイメージだ。
 何を話の中に盛り込み、何を見せ、何をナレーション(つまり説明)ですませるのか、そのあたりのセンスが決定的に自分と合わない。。

 ただ、どう映像化するか、画面の中に何をどんな風に詰め込むか、という部分でのセンスは悪くない。バーでアーサーとフォードの後ろに座っているおばさんの視線、地球があっけなく消滅する瞬間、異性人ヴォゴンやマーヴィンなどの造形……といった“見た目”は、ユニークかつ妥当で、この破綻しまくった映画世界にしっくりと馴染む。ミュージック・クリップ出身の監督による長編デビュー作というが、キャリアが生きていることを感じさせる絵作りのセンスだ。
 とはいえ、いたずらにヴィジュアル重視に陥らず、一応は流れるようにお話を進ませる。

 そのお話が「ピンと来ない」のが問題なのだ。ストーリーは薄くてもいいから、ちゃんと“固形”であって欲しい、というのが映画(に限らず、物語の表現手段もろもろ)に対する自分的要求である。
 原作を読んでいないと面白くない、わかりにくい、という評もあるようだけれど、いや原作を読んでも面白くなかったのだから、たぶん自分にとっては、そもそも描こう(語ろう)としているものが面白くないしわからない、そのまとめかたも形がなくてあやふや、という類の話なのだろう。

|

« スタンドアップ | トップページ | スケルトン・キー »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 銀河ヒッチハイク・ガイド:

« スタンドアップ | トップページ | スケルトン・キー »