父親たちの星条旗
監督:クリント・イーストウッド
出演:ライアン・フィリップ/ジェシー・ブラッドフォード/アダム・ビーチ/バリー・ペッパー/ジェイミー・ベル/ポール・ウォーカー/ジョン・ベンジャミン・ヒッキー/バド・ガーバー
30点満点中19点=監4/話4/出3/芸4/技4
【硫黄島に立てられた星条旗、その真実】
太平洋戦争の重要戦略拠点として位置づけられる硫黄島。ここに立て篭もる1万人以上もの日本兵を掃討すべく、米軍が大挙して上陸する。想像を絶する銃撃戦を経て島の南端・摺鉢山を占拠した米軍は、その山頂に星条旗を立てた。写真を見た上層部は、そこに写っている兵士たち、ドク、ギャグノン、アイラの3人を本土に帰還させる。彼らを英雄に仕立て上げることで国民の士気を高め、戦時国債の購入を呼びかけようというのだった。
(2006年 アメリカ)
【基調に“対”と“差”を据えて、人の愚かさを描く】
硫黄島での戦闘を日米双方の視点で描く「硫黄島二部作」のアメリカ・ヴァージョン。いわば“対”をなす作品の一方であるわけだが、この映画単独で見た場合にも“対”あるいは“彼我の差”が重要なキーワードとなる。
まずは『ミスティック・リバー』や『ミリオンダラー・ベイビー』でも強烈な印象を残した、光と影、明と暗。コントラストの強い画面はそのまま、晴れやかさと悔恨、成功と蹉跌、浮き沈みのある人の生を象徴する。
特に今回は人物の表情が闇の中に置かれることが多く、凝視しなければ捉えられない、覗き込んでも見えない、人間の中の暗部をうかがわせる。
生き残った者と死者との差についても考えさせる。砂浜で伏臥する兵士たちはすべて「死体予備軍」にしか見えないのだが、後には確実に、帰還した者と没した者とに分けられることになる。しかも死す者は、これ以上ないむごさで描写される。
さらに、戦争とは殺し合いにほかならない、という事実を叩きつけたかと思えば、戦争の行方がカネによって左右されることも示される。
生還者と死者、兵士と政治家、彼我の間にあるものは、志や知恵や習熟度の差などではなく、単に「銃弾を上手によけられたか」という運不運、「大学を出たか」という出自の違いでしかない。ほんのわずかの差が英雄と骨、酒と血の分かれ道。しかも、本当の英雄が運を持ち合わせているとは限らない。その理不尽さに、アイラは慟哭するのだ。
色調もふたつに分けられる。戦場では極端に色が削られ、硝煙が漂うグレイの世界が作られる。いっぽう内地や現代は、ナチュラルに近い色合い。その違いが何を表すかは明らかだ。
銃弾と咆哮と友への信頼、ダンスと音楽と政略、その温度差こそが太平洋戦争の真実だったのだろう。
われわれ日本人にとっては「戦時中に野球がおこなわれ、パーティーが開かれているアメリカ」と日本との差もショッキングである。
唐突に、またフラッシュバックとともに、たびたび遷移する時制もこの映画の特徴だ。ここでは逆に、過去と現在の“差”が取り払われる。数十年におよぶ時の流れをごちゃ混ぜにすることで「あの場にいた者たちにとっては過去も現在もなく、永遠に体内に存在する戦争」だということを感じさせる。
また入り組んだ時制は感情移入を阻むが、それも当然、たとえ国のため友のため戦った人であっても、銃を持って突撃する兵士に感情移入することは許されないのだ。
硫黄島には現在、自衛隊の航空基地が作られ、米軍の訓練もおこなわれている。この地で殺し合った両者が、やがて訪れる次の殺し合いのために手を結ぶという不可思議。
ビーチで戯れる兵士たちから、ラストカット、現在の硫黄島へ。波はいまも打ち寄せ続ける。自然は変わらず、人間の愚かさも変わらないということか。愚行は繰り返されるということなのか。
監督クリント・イーストウッドも、製作スティーヴン・スピルバーグも、脚本ポール・ハギスも、みんな、歴史や祖先に対するのと同等以上に、映画というものに対して誠実な人たちなのだろう。だからこうやって、さまざまな意味・意図をフィルムの中に押し込めて、提示する。
凄惨な戦場描写よりも、その誠実さゆえに戦争について考えさせる力を持ち得た映画である。
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