25時
監督:スパイク・リー
出演:エドワード・ノートン/フィリップ・シーモア・ホフマン/バリー・ペッパー/ロザリオ・ドーソン/ブライアン・コックス/アンナ・パキン/トニー・シラグサ
30点満点中18点=監4/話4/出4/芸3/技3
【彼に残された、最後の25時間】
麻薬密売人のモンティは、25時間後、収監されることになっていた。刑期は7年。残された1日を、彼はどう過ごすのか? 密告したのではないかと恋人のナチュレルを疑う。父が営むバーを訪れるものの食事はノドを通らない。数少ない信用できる親友は、高校教師のジェイコブと株のブローカーをしているフランクだけ。彼らとともに“送別会”を開き、飼い犬ドイルの面倒を見てくれと託す。日が暮れ、朝になって、その時がやってくる。
(2002年 アメリカ)
【壊されるべきではないクソったれの世界】
ちょっとオイリーで、粒子が目立つ部分もある絵が、同一の動きを重複させる独特の編集でつながれていく。そうして描き出されるのは、べっとりして、ざらざらした出来事が、繰り返される世界。
そこに生きるのは、犯罪に手を染めて人生を棒に振ってしまうモンティ、倫理観に縛られて身動きの取れないジェイコブ、突っ張って生きることで自分を高く見せようとするフランクといった、いわば小市民たち。
そして、終業のベルとともに散っていく生徒たちや、塗り替えられた学校記録、友人たちが主人公について語る会話、裏切りといったエピソードで、自分の周りにあると思われたものが実際にはそれほど確かな存在ではないこと、自分のいない場所に存在する自分、といったことが印象づけられる。
つまらない世界と、つまらない出来事と、つまらない人たち。憂さを晴らすには、酒とヤンキースとドラッグに頼るほかはない。
鏡の中のモンティが吐き出すように、この世の中はたぶん、懺悔と偏見に満ちている。自分の生きかたを自分自身で決めることすらできない。もしあのときこうしていれば、もし次の角で左に曲がれば、そんな思いは夢想にとどめておくことのみ許される。結局のところ、それが僕らの属する世界であり、僕ら自身の姿なのだろう。
けれど、だからといって壊されるべきではない。いったんリセットしたほうがいいように思われた世界や社会や日常や人間や関係であっても、決して破壊すべきものではない。そんなふうにスパイク・リーは、9・11によって感じたのではないだろうか。
単に“属する”だけでなく誰かに影響を与えることもできる、ということが語られる。誰かと誰かが関わりあり寄り添いあって何かが作られていくことも、長めのカットで描く演技アンサンブルによって示される。フランクの涙が、誰かに“本気”をぶつけることでこそ真の自分が表出するということを訴える。
つまらない世界でつまらない人たちが繰り返すつまらない日常の中にも、本音をさらけ出してしまうほど心が震える“何か”はあるのだ。
冒頭、モンティは傷だらけの犬(ドイル)を助け、その背後の夜景には、天に向かって真っ直ぐな光が伸びる。
これは『蜘蛛の糸』か。彼はカンダタなのか。だとすればこのクソったれの世界も、そこに生きる名もなき小市民も、やっぱりみな救われるべきなのだ。
その人がいようといまいと自分には関係のないモンティという人間の、最後ではあるがどうということのない1日を追っただけなのに、作者の“いいたいこと”が質量となって迫る映画である。
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