ペーパー・ムーン
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
出演:ライアン・オニール/テイタム・オニール/マデリーン・カーン/ジョン・ヒラーマン
30点満点中20点=監4/話4/出5/芸4/技3
【ひとりの詐欺師とひとりの少女のロード・ムービー】
昔なじみの女性が死に、その葬儀へと立ち寄ったモーゼ。母親が死んで独りぼっちになった9歳のアディを、いやいやながらも、ミズーリに住む叔母さんのもとへ送り届けることになる。このモーゼ、実は詐欺師。道中で小さなペテンを働いては小銭を稼ぐ。モーゼを「パパではないか」と考えたアディも、すぐさま(モーゼも顔負けの)テクニックを身につけていく。失敗とぶつかりあいを繰り返しながら、目的地が少しずつ近づいていた。
(1973年 アメリカ)
【映画の神様が与えてくれた奇跡】
約20年ぶりの鑑賞か。それでも、オランダに入れない美人、ヘレンおばさんの20ドル札など、細かなところまで覚えているのは、それだけショッキングな映画だったということなのだろう。
いやもうショックである。映画の神様が僕らに与えたもうた奇跡、テイタム・オニールという1つの奇跡が、ここにある。それだけで本作を評するには十分であり、それだけで本作は観る価値のあるものとなっている。
ぷっとしたふくれっ面。ひょこんと上げられる眉。計画が成功したときの哀しげな顔。
もちろん、角度と動きに気をつかったダイナミックなカメラワークとか、1930年代の街や農村を上手に再現した美術とか、いろいろと映画的な楽しみもあって、それがモーゼとアディの関係をより魅力的にしていることは間違いない。無駄なことを省きつつも、必要なことをたっぷりと伝えるシナリオの完成度も高い。静かな“間”や、ほんの1カット、たった1つの動作で個々のキャラクターと心情を描き出していく演出も上質だ。テイタムの実の父ライアンが、娘の中にあるものを引き出したことも確かだろう。
けれど、んなこたぁどうでもよくなるくらい、この映画はテイタムのものとなっている。
もうひとつ、今回気づいたのは、アディが「小さな女の子なのにスゴイ」という存在ではなく“女性の本質”として扱われているのではないか、という点。母親の葬儀でひとりだけ白のドレスを着ていることで表されるノーブルさ。ラジオに向かって本気でツッコミを入れる無邪気さ。騙すべき人を騙すしたたかさと、救うべき人を救う優しさ。独占欲と、父性への憧れ。
ロマンチストとリアリスト、2つの人格が同居しているかのように、アディは描かれる(トリクシーも同様。だからこそこのふたりは衝突し、あるいはシンパシーを感じあう)。
まさに、女性。
いったいこの世の中にどれくらい、愛しあいながら罵りあう、という関係が親子の間(モーゼとアディが親子である証拠はないが)や男女間に成立しているだろうか、なんて考えたりもするが、アディが女性性の象徴であり、愚かでスケベでいい加減で、仕事は器用だけれど生きかたは不器用、けれどしっかりと優しさを抱えている、そんなモーゼが男性性のシンボルとするなら、なるほどこの2つは、永遠に「愛しあいながら罵りあう」関係にあるのかも知れない。
20年前にも感じたことだが、紙でできたお月様は、危なっかしいけれどそこにいたい場所、ひとりだけではバランスの取れない世界という、男女や親子の関係を表しているのだろう。
行き詰まったときに、何度でも観たくなる麗しい映画である。
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