プレイス・イン・ザ・ハート
監督:ロバート・ベントン
出演:サリー・フィールド/ダニー・グローヴァー/ジョン・マルコヴィッチ/リンゼイ・クローズ/エド・ハリス/エイミー・マディガン/テリー・オクィン/レイン・スミス/レイ・ベイカー/ヤンクトン・ハットン/ジェニー・ジェームス
30点満点中18点=監4/話4/出4/芸3/技3
【大地の上、家族とともに。生きるということ】
1935年、テキサス州ワクサハチ。保安官である夫に先立たれたエドナにのこされたのは、まだ幼い息子のフランクと娘のポッサム、わずかの貯蓄と莫大な借金。銀行からは家と土地を売ってはどうかと勧められるが、彼女はこの場所で生きていくことを決意する。流れ者の黒人モーゼの助けを借りて敷地に綿花を植えたが、綿の相場は暴落。盲目のウィルを家に住まわせて家賃を手にするものの、借金返済の目処は立たないままであった。
(1984年 アメリカ)
【ただひたすら強烈な世界】
ある意味では「何もない話」である。借金の返済期限が迫り、汲々とする家族の約1年。それだけのストーリーといっていいくらいだ。
なのに、これほどまでに強烈な映画が出来上がる。
たぶん、このシーンで“強烈”と感じた人は少ないと思うのだが、食卓の上から(恐らくはパンの入った)カゴがどかされ、そこに遺体が置かれるという場面。日常から、瞬時にして非日常へ。あるいは日常としての人の死。そんなことが強烈に印象づけられる。
さらに、この映画の舞台は「人と人とのつながりこそがルールであり法である時代・土地」ということが示される。嵐、不倫、人種差別など、この世界が多くの“目にしたくないもの”で満ちていることも。
淡々としながらも、実に強烈な映画なのだ。
この強烈さの中で、映し出される田園風景を、とても「美しい」などといってはいられない。サリー・フィールド、ダニー・グローヴァー、ジョン・マルコヴィッチらの演技を「上手い」などといってはいられない。
エドナやモーゼやウィルにとって、この強烈な世界がリアルであり、自分自身の振る舞い・言動こそがリアルなのである。「何もない」ように見えるけれど「何かをしなければならない」が山積みとなっている、そんな1日1日が重ねられていくのである。
そして僕らは、そんな世界・そんな人々の姿から「生きるって、いったいどういうことなんだろう。何のために人は生きるのだろう」という大命題を突きつけられる。
主人公のエドナにも同じ問いが、しかも夫の死によって唐突に提示されたわけだが、彼女はただ「生きたい。生きなければならない。しかもここで」という決意を抱き、行動に移すことで答えとする。
それはたぶん、30エーカー(約12万平米)の土地を持つ者にだけ許された回答なのだろう。あるいはその回等以外には許されなかった、か。うん、エドナにとっては、この狭くて強烈な世界で、いま目の前にある材料だけで「なんとしてでも生きていく」こと以外、選択肢はなかったのだ。
大地から高く離れ、「真っ向から人と付きあう」という煩わしさから逃れている僕らには、確かにあれやこれやと選択肢はあるけれど、その中から「得になる回答」なんかを探しているうちに、もっともシンプルで、もっとも美しい回答を見出せないまま時を過ごしてしまうのかも知れない。
ただ、わずか一度の(しかもギリギリの、死ぬ思いをしてつかんだ)成功をささやかな糧として、さらに生き続けようとするエドナの姿勢は、現代の市井にも通じるものであるはずだ。
1つのシーンが、ドアをノックする音や誰かに呼ばれる声で始まる、という作りも強く心に残る。非日常、ターニング・ポイント、目にしたくないものが単に「そこにある」ものなら、近づかずにおくこともできる。だが、それらは向こうから訪れるものであり、決して逃れることはできない。そんな運命論を感じる。
ラストでは、生きるものも死せるものも等しく扱わる。「何のために人は生きるのか」とあらためて問われている思いがする。過酷だろうが楽しかろうが目にしたくないものであろうが、リアルはすべての人の周囲にあり、運命はすべての人に付きまとう、そんなメッセージであろうか。
最後まで強烈さを残す映画である。
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