デッドマン・ウォーキング
監督:ティム・ロビンス
出演:スーザン・サランドン/ショーン・ペン/ロバート・プロスキー/レイモンド・J・バリー/ロバータ・マクスウェル/リー・アーメイ
30点満点中19点=監4/話3/出5/芸3/技4
【尼僧と死刑囚、その心のつながりの果てには】
黒人スラムにある「希望の家」で働くシスター・ヘレンは、1通の手紙を受け取る。差出人は囚人マシュー・ポンスレット。彼は6年前に、若いカップルへの暴行と殺人の罪で死刑を言い渡されていた。「真実を話すことが救いにつながる」とマシューを諭しつつ、弁護士ヒルトンとともに再審や特赦のために奔走し、あるいは被害者の遺族やマシューの家族らと会って苦悩を深めるヘレン。“その時”は、確実に迫りつつあった。
(1995年 アメリカ)
【満ちる気迫に、死というものを考えさせる】
演技において大切なのは、うん、リアリティとか「なりきる」とかじゃなくて、気迫なんだな。
目を見開いて、懸命に自分のできること、進むべき方向を模索するスーザン・サランドンのヘレン。“その時”と対峙して、静かに抗い続けるショーン・ペンのマシュー。ふたりの気迫が画面に満ちる。
各シーンを構成するのは、なんていうことのないカットなのだ。だが、作りものの人物にはしない、当たり前の絵にはしない、という気迫が、演じる側にもそれを撮る側にもあるものだから、とてつもない緊張感が場面ひとつひとつを覆っていく。
あるいは、なんていうことのないカットでも、丁寧に積み重ねていくことで大きな塊となって観る者に重量を感じさせることができる、ということがわかる。
また、マシュー、ヘレン、被害者の遺族、マシューの家族らそれぞれを“個”として扱い、一個の人間として対話させ、それぞれが何年も抱え続けている苦悩や思いを適当な配分で詰め込むことで、「いま画面の中で起きていること」を意識させる作りになっている。
そう、これは単なる“殺人事件とその判決”ではなく、それに関わった多くの人の暮らしや価値観を揺るがすほどの“密度の高い重大な出来事と、その渦中にいる人々”が描かれた映画なのだ。
そして、本作の中に答えは示されない。
私は「誤審というものがなくならない限り、死刑制度は容認するべきではない(byユージーン・ヤング)」という考えがあることを知っている。マシューやデロクロワがいう「愛する人を殺されたなら、自分で仇を討つ」という思考にも共感を覚える。ヘレンは「信仰で片付くなら話は簡単。努力が大切です」と自らの行為の背景を語り、と同時に葬儀や埋葬など、死から始まる現実問題の存在にも言及する。
それらをひっくるめて受け取って、気迫に押されて、観た人それぞれが、死刑についてだけでなく死そのものについても考える契機となる、そんな映画だといえるだろう。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント