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2007/03/26

ボーイズ・ドント・クライ

監督:キンバリー・ピアース
出演:ヒラリー・スワンク/クロエ・セヴィニー/ピーター・サースガード/ブレンダン・セクストン三世/アリシア・ゴランソン/アリソン・フォランド/マット・マクグラス/ジャネッタ・アーネット

30点満点中16点=監3/話2/出4/芸3/技4

【彼女は“彼”として生きていこうと思った】
 性同一性障害を持つティーナ・ブランドンは、髪を短く切り、男として生きていこうと決めた。故郷のリンカーンを離れ、フォールズ・シティで暮らし始めた“彼”は、刑務所帰りのジョンやトム、その女友達のキャンディスやラナとともに享楽的な日々を過ごす。以前犯した窃盗の罪で裁判所に出頭しなければならないブランドンは、この生活と、愛しいラナを手放したくないばかりに躊躇するのだった。が、やがて悲劇が訪れる。
(1999年 アメリカ)

【観察させて、そこから何かを考えさせる映画】
 性同一性障害という大テーマに真っ向から取り組み、そして「人として、何が正常で、どこからが異常なのか」といったことを考えさせる映画、ではあるのだが、そうしたことよりも以前に、目の前に提示される状況に対する引っ掛かりがある。

 画面にうつるのは、今日、あるいは今夜という時間しか軸として持たず、酒を飲んで玉を突いてクルマを転がすことしか頭にはない、いわば、どうしようもない連中。ブランドンが“彼”であろうが“彼女”であろうがお構いなしに、ここでは悲劇が起こっただろう、と思わせる。

 加えて、ブランドンが何者であるかも示されない。性同一性障害であることだけはわかるが、“彼”の価値観もまた享楽的なものにすぎず、過去も曖昧で、単に「男として生きたい女」以上のアイデンティティが感じられない人物となってしまっているのだ。
 キーアイテムとして登場するインスタント・カメラが示すように、あくまでもブランドンの周囲に築かれる生活は、即物的で、すぐに消えてしまっても当然のものばかりだ。
 恐らくブランドンは「何者にもなれなかった存在」であり、それゆえに刹那的な生きかたしかできないのだとは思うが、にしても、キャラクターとして浅いように感じる。「彼が“彼”として生きられない辛さ」に対する感情移入ができないままにお話が進んでしまう

 だからなのだろうか、カメラは強引なまでに登場人物たちに近づいて、横たわる姿や歪む顔や走るクルマを適確かつ大きく捉え、観る者を当事者の立場へといざなう。暗い画面の中にまぶしい場所を作って、ココを観ろと脅迫する。
 近寄るけれど潜り込まない、という距離感。「人」に近づきつつ「事件」を描き出す、というスタンス。冷静な目でそれぞれの人物や出来事を観察してもらって、この特異な事件の裏側や、事件を引き起こした人間社会について考えてもらおうとする映画に思える。

 確かに、オスカーに輝いたヒラリー・スワンクだけでなく、ジョンを演じたピーター・サースガードのイっちゃってる姿、ラナ役クロエ・セヴィニーのとらえどころのなさ、ラナの母ジャネッタ・アーネットの寄せられた眉などは観察に値する。

 どう思いますか、と提示するだけの映画はあまり好きではないけれど、性同一性障害や「正常と異常の境目」というのはそれぞれが答えを出すしかない問題であり、また、そのほかにも考えなければならない事柄を抱える事件・ストーリーであるだけに、この作りもアリなのかも知れない。

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