ワイルド・アット・ハート
監督:デヴィッド・リンチ
出演:ニコラス・ケイジ/ローラ・ダーン/ダイアン・ラッド/ハリー・ディーン・スタントン/J.E.・フリーマン/ウィレム・デフォー/イザベラ・ロッセリーニ
30点満点中16点=監4/話3/出3/芸3/技3
【ふたりはこのまま堕ちていくのか?】
チンピラを殴り殺した罪で服役中のセイラー・リプリー。仮出所の日、彼を迎えに来たのはルーラ。ふたりはそのまま逃避行を決め込むが、ルーラの母マリエッタはなぜか異常なほどセイラーを憎み、昔なじみの探偵ジョニー・ファラガットを差し向け、さらには裏稼業のサントスにセイラー殺害を依頼する。どうやらマリエッタはセイラーに弱みを握られていると思い込んでいるらしい。危険を背に感じながら、ふたりは西海岸を目指して走る。
(1990年 アメリカ)
【リンチに対する再発見はあるけれど、ちょっと退屈】
ずっとリンチ監督のことを“あっち側の人”だと思っていた。常識と倫理観の枠にとらわれてそこからハミ出すことのできない“こっち側のわれわれ”とは異なる価値観・行動様式の持ち主だと。
しかし本作を観ると、完全に“こっち側”の映画だった『ストレイト・ストーリー』よりもさらに「意外と理解の範疇にある監督なのかも知れないな」という気がしてくる。
暴力で幕を開け、SEXに終始する120分。時おり挟まれるグロテスクさと狂気と得体の知れなさ。それは確かに、これまで考えていた「リンチっぽさ」ではある。セイラー役のニコラス・ケイジやマリエッタを演じたダイアン・ラッドが見せる「ためこんだ挙句にイっちゃった眼」も、他の監督にはなかなか撮れない絵だろう。
そしてこの映画には、主役ふたりが“何もしない”という異様さがある。ただベッドの上であえぎ、タバコをくゆらすだけだ。頭の悪い人が何もしないまま転落していく様子を、淡々と追っていく。
それはまさにタバコ的な人生。刺激的かつ安堵感もあるけれど、利はなく意味もなく害のみで、瞬く間に燃え尽きる。
何もしないのにルーラは、ドロシーのようにかかとを鳴らして、何もなかったことにして元いた場所に戻りたいと涙する。
また、極端なほど生音にこだわっている作りにも思えた。登場人物および画面に映っているものから発せられる言葉や音を、整音せずにそのまま録ったようなサウンド。そこにSEやBGMといった「作られた音」が乗っけられることで、急に湧き上がってくる違和感。
そんな、ダラダラした主人公たちと音の作りによって、きっちりと閉塞感と疎外感が描き出されていく。そこに理詰めの映画作法を見た気がして、ひょっすとるとこの人って“完全にあっち側の人”ではないのかな、と思えるのだ。
という発見はあったものの、とにかくセイラーとルーラが何もしないので少々退屈な映画であることは否めない。
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