« エミリー・ローズ | トップページ | ヘイフラワーとキルトシュー »

2007/05/28

ホテル・ルワンダ

監督:テリー・ジョージ
出演:ドン・チードル/ソフィー・オコネドー/デズモンド・デュベ/ファナ・モコエナ/トニー・キゴロギ/ハキーム・ケイ=カジーム/カーラ・セイモア/ホアキン・フェニックス/ジャン・レノ/ニック・ノルティ

30点満点中18点=監4/話4/出4/芸3/技3

【内戦のルワンダに、家族を救おうと戦った男がいた】
 1994年、ルワンダの首都キザリ。フツ族とツチ族による内戦は終息したかに思われたが、フツ族の大統領が暗殺され、暴徒と化した民兵らがツチ族の虐殺を始める。高級ホテル、ミル・コリンの支配人ポール・ルセサバギナはフツ族だったが、ツチ族出身の妻や隣人を守るため、多くの難民をホテルにかくまうことになる。介入に消極的な国連軍、将軍への賄賂、行方不明の姪といった悩みを抱えながら、ポールは生き残る術を模索する。
(2004年 イギリス/イタリア/南アフリカ)

【わかりやすく誠実に「いいたいこと」をまとめた作品】
 確か『戦場のピアニスト』の項で書いたと思うが、人が人でなくなる場、それが戦争だ。生き延びるためには、利用できるものは利用するしたたかさを身につけると同時に、うそを散りばめ、こびへつらい、知らんぷりを決め込み、つまりは人としての諸要素を捨て去らなければならない。
 クマのぬいぐるみにヤリが突き立てられ、人が不在となれば、国は滅び、その象徴ともいうべき紙幣は踏みにじられることになる。
 戦場を取り巻く周辺にも、人はいなくなる。介入と撤退の裏側には明らかに打算と利権とがあり、その綱引きによって死者の数は多くもなるし少なくもなるのだ。

 そんな理不尽な場において人を人たらしめるものがあるとすれば“誇り”だろう。あるいは責任感や義務といってもいい。ジャーナリストとして、軍人として、ホテルマンとして、夫として父として、そうした自らの属性に根ざした「こうあるべき。そうあってこそ胸を張って生きられる」というプライドが、人を突き動かすのだ。
 ポールの働きは見事である。妻子に対して家長としての責任をまっとうするだけでなく、常に高級ホテルの支配人としての誇りも胸に抱き続ける。無駄になりそうな食材をどう生かすか、親を失った子どもたちの世話にどんな人物を送ればいいか、そして「お客様」を救うために何をすればいいのか、つまづきながらも正しいと思う方向へとひた走る。
 その汗と涙を、非ネイティヴの発音を使いこなしてドン・チードルが鮮やかに演じ切る。

 ポールだけではない。ミル・コリンの経営者(ジャン・レノ)、カメラマン(ホアキン・フェニックス)、赤十字の職員(カーラ・セイモア)、国連軍のオリバー大佐(ニック・ノルティ)らも、できる範囲のことをやろうと懸命だ。
 たぶんこうやって、たとえ小さくても自らの力をふるい、誰かに頼り、頼られればうなずき、その積み重ねが、人が人として生きられる社会と未来を作るのだ。

 映画としては、やや説明過多になっているところもあり、工夫が足りないとも思う。だが、何が問題なのか、何を伝えたいのかを真摯に考え、それら問題点とメッセージとをわかりやすく、極めて誠実にまとめた仕上がりになっている。ホっとひと息つかせた直後に悲哀を描くなど緩急のつけかたも上質で、観客にイヤでも戦争の現実を突きつける内容と作りだ。

 このレベルの映画が「採算が取れそうもない」との理由で日本での公開が危ぶまれたというのは信じ難い。メッセージ映画であると同時に「1つの物語をきっちりと見せ切る」という点で立派なエンターテインメント作品として成立しているのだから、もう少し観客を信用してもよかったんじゃないだろうか。

|

« エミリー・ローズ | トップページ | ヘイフラワーとキルトシュー »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ホテル・ルワンダ:

« エミリー・ローズ | トップページ | ヘイフラワーとキルトシュー »