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2007/06/09

カッコーの巣の上で

監督:ミロス・フォアマン
出演:ジャック・ニコルソン/ルイーズ・フレッチャー/ブラッド・ドゥーリフ/ウィル・サンプソン/シドニー・ラシック/クリストファー・ロイド/ダニー・デヴィート/ビンセント・スキャベリ/ミューズ・スモール/ウイリアム・レッドフィールド/ディーン・R.ブルックス

30点満点中19点=監4/話5/出4/芸3/技3

【精神病棟に紛れ込んだ、ひとりの男】
 労働農場でトラブルばかり起こす常習犯罪者マクマーフィは、鑑定のために精神病院へと送られる。彼はここでも、賭場を開帳し、病棟の全権を握る婦長ラチェッドに立てつき、他の患者を連れて海に乗り出し……と、次々に問題を引き起こす。だが皮肉にも、マクマーフィのおかげで患者たちは明るくなり始めていた。彼は本当に異常なのか、それとも偽りなのか。判断に悩む医師たちだったが、ラチェッドの進言で監視は続行されることになる。
(1975年 アメリカ)

【正常と異常、バカと異常の境界線】
 ニコルソンがセラピストを演じた『N.Y.式ハッピー・セラピー』でも、あるいは『17歳のカルテ』でも、さらには『モンスター』のアイリーンや『コントロール』のリー・レイといった凶悪犯の姿からも、精神をテーマとした映画で常に考えさせられたのは“正常と異常の境界線は、どこにあるのか?”という点だった。
 これについて本作はドクターと患者の見分けがつかないことを示して、境目などないことを知らせる。

 そもそもマクマーフィが要鑑定と判断されたのは「好戦的で、勝手な発言が多く、怠け者」であることが理由。これ全部、自分に当てはまるんですけど。いや私だけじゃなくて、ほとんどの人間が持つ要素ではないだろうか。
 またディスカッションの場面では、喋っている人物のアップ~バストショットが多用される。監督は彼らを“異常”とひとくくりにせず、独自のキャラクターを備えた“個”として扱っているわけだ。

 では、さも境界線があるかのように感じられるのはなぜか。あいまいで不確かな境界線を作り出しているものは何か。
 1つには「公共の場で騒いではいけない」とか「わけもなく他人を殴ってはいけない」といった“常識”。そこからハミ出して社会に適応できない者は、「正常ではない」というレッテルを貼られることになる。
 ところがマクマーフィは「ここの連中は街を歩いているバカどもと変わりはない」という。じゃあバカと異常の境界線はどこにあるのか。
 それは権力者たちが設定した“ルール”ではないかと、本作は述べる。

 たとえば膨大な借金にあえぐわが国において、施政者たちが「国民ひとりあたり年間10万円の増税」を決めたとしても猛反発を食らうだろう。だが1万円だとしたらどうか。「私たちの子どもが大人になる、20年後の日本を『美しい国』にするために」とかなんとか丸め込まれて、大多数が「仕方ない」と諦めるかも知れない。加えて権力者たちは、一部の金持ちを優遇する政策もこっそりと取り入れ、彼らにも“丸め込み”の協力者となってもらうはずだ。
 支配者でありたいと願うラチェッド婦長も、許可された者だけが順番に発言することを患者たちに強い、説明抜きにクスリを飲むことを求め、(レッドソックスのファンなのか)ヤンキースが出場するワールドシリーズの観戦を許さない。

 そして、権力を持つ者が設定した“ルール”に大多数のバカが賛成したとき、不満を漏らす者は異常とみなされて、社会からオミットされ、2階の病棟へと移されるのである。
 バカに対する「お前らはバカだけれど、完全に異常ではない。お前らの向こう側に、もっと“どうにもならないヤツ”がいる」という確信的なエクスキューズ、懐柔的なシステム。
 実は人間社会は「十分な人材が確保されておらず、払い下げのスクールバスで移動する」この病院にようにバカに対しても冷酷なのだが、バカだからそのことに気づかないのだ。

 たぶんチーフは、そんな、この世の中の仕組みに気づいた。いや知っていたのか。だが、それを認める自信も、どうすればいいのかについての行動指針もなかった。何しろ彼の周囲には自由意志で自らをバカあるいは異常に固定して、それで良しとする者たちしかいなかったのだから。
 そこへ現れたマクマーフィという、正常とバカと異常とを自由に行き来する存在によって、チーフは確信を抱くことになる。その生きかたこそがシステムから抜け出す道であると。
 チーフの父親は大きいだけでなく高圧的で、その父を殺めたのはチーフ自身だろう。罪の意識に苛まれていた(または罪を感じないことが苦痛だった)彼は、マクマーフィの登場によって変わる。人は、導いてくれるものに快感と反発、安心と屈辱とを同時に感じるが、その想いをすっかり取り込んで消化して、ようやく巣から羽ばたくことが可能になったのだ。

 物語には、ディスカッションやバスケットの試合、カードゲーム、脱走や釣りといった出来事が組み込まれているが、それらのシーンは途中で打ち切られ、「結果」や「解決」の描写がほとんど出てこないことが印象的だ。
 僕ら自身に想像や解決を求める作りとなっているわけで、ひょっとするとこの映画は、そうして自ら考え、自ら答えを模索できる者こそが正常であるのだといっているのかも知れない。
 20年前に観たときは「停滞した空間に、まったく異なった因子を放り込んだ後の活性化の様子」として捉え、マクマーフィを「結局コイツも異常だったのか」と感じた作品を、いま、もう少し“考え”ることはできているのだろうか。

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