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2007/06/04

Vフォー・ヴェンデッタ

監督:ジェームズ・マクティーグ
出演:ナタリー・ポートマン/ヒューゴ・ウィーヴィング/スティーヴン・レイ/スティーヴン・フライ/ジョン・ハート/ティム・ピゴット=スミス/ロジャー・アラム/ベン・マイルズ/ルパート・グレイヴス

30点満点中17点=監4/話3/出4/芸3/技3

【それは復讐か、それとも革命か】
 アメリカ内乱の余波と狂信者によるウイルス攻撃にさらされたイギリス。国家は独裁者サトラー議長を中心とする特権階級に支配されるようになり、国民からは自由が奪われていた。反逆罪で処刑された両親を持つイヴィーは、矯正施設に入れられ、いまはテレビ局で大人しく働く。が、夜道で秘密警察に襲われそうになり、危ういところを仮面の男“V”に助けられる。復讐と革命を掲げる彼の出現によって、イヴィーの人生は変わっていくのだった。
(2005年 イギリス/ドイツ)

【人と社会は常に、変革を必要とする】
 仮面のモデルとなったガイ・フォークスは、カトリックが弾圧されていた時代のイギリスで、地下から国会を爆破しようとした人物。ストーリーは抑圧や帝政からの解放を謳うチャイコフスキーの『1812年』で幕を明け、反体制の象徴とでもいうべきストーンズで締められる。
 その合間にも、これでもかとばかりに“変革”が詰め込まれる。収容所での人体実験やウイルスによる人体強化、バラ、デストピアといったSF的な道具立てがかすんでしまうほど、変革への渇望に満ちた内容だ。

 ただ、単純な反ファシズムにとどめず、悪と正義がイコールあるいは表裏一体をなしていると主張する映画でもある。そこが面白い。
 たとえばVの動機は私怨である。作中、Vのお気に入りの映画として登場する『モンテ・クリスト伯』は、無実の罪を着せられ、脱獄後に報復を果たすエドモン・ダンテスが主人公だ。
 つまり「革命」といえば聞こえはいいが、その実は復讐なのである。恨みつらみが人を動かす。その結果として英雄が生まれる。ある英雄的行為や趣味嗜好は体制のベクトルによって正義にも悪にもなる。そんな皮肉が込められているように感じた(支配者にはドイツ語だけでなくイギリス英語もよく似合う、という皮肉も)。

 演出的には、リアルタイムのスピード感とスローモーションによる「どんなふうに戦っているか」をわからせる描写、ふたつを上手に使い分けたアクションがポイントだが、もう1つ、観る者にイヴィーと同じ体験と思考を味わわせようとしているのも特徴だ。
 序盤から中盤にかけては“巻き込まれ型”のストーリーを採り、イヴィーにもわれわれにもフィンチ警視にも進むべき方向を見出すヒマを与えないよう有無をいわさず突っ走る。中盤から終盤ではイヴィーに試練を、フィンチ警視には疑念を与える。先に登場させたモノやシーンを後から引っ張り出してくる構成も、物語に厚みを出すのと同時に「いま自分の周囲にあるもの」を咀嚼させ、生きていくことの価値を思案させる機能を果たす。
 つまり「自分はどうするべきか」を登場人物と観客の双方に考えさせる作品となっているのだ。
 

 やがて「どうするべきか」という自問は「どう変わろうか」へと変化していく。思ったほど派手ではないんだけれど、それを補うだけの“いろいろ”を盛り込み、自己変革の意義について考えさせる映画だともいえるだろう。

 なぜ、いま革命・変革なのかは問うまい。ナポレオンの軍隊が民衆の抵抗ではなくロシア軍の戦略と吹雪に屈服して敗走したことも、ミック・ジャガーが「サー」の称号に浮かれたことも忘れよう。
 人と社会は常に、変革を必要とするものなのである。

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