バベル
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:ブラッド・ピット/ケイト・ブランシェット/モハメド・アクサム/アドリアナ・バラーザ/ガエル・ガルシア・ベルナル/エル・ファニング/ネイサン・ギャンブル/マイケル・ペーニャ/サイード・タルカーニ/ブブケ・アイト・エル・カイド/ムスタファ・ラシディ/アブデルカデール・バラ/役所広司/菊地凛子/二階堂智/村田裕子/小木茂光
30点満点中20点=監4/話4/出4/芸4/技4
【銃声の陰にある哀しみ、人が背負う罪】
モロッコ。銃で戯れる幼い兄弟が、誤ってアメリカ人観光客のスーザンを撃ってしまう。彼女を連れて近くの小村へ向かう夫リチャード。救急車は待てど来ない。メキシコ。リチャードとスーザンの子どもたちを預かるアメリアは、息子の結婚式に出席するため故郷へと戻る。だが甥サンチャゴの暴走のせいで思わぬ事態に。日本。刹那的な毎日を過ごす聾唖の少女チエコのもとに刑事が訪れる。1つの銃声の陰には、いくつもの哀しみがあった。
(2006年 フランス/アメリカ/メキシコ)
★ネタバレを含みます★
【思いやり・いたわりと想像力が、僕らを救う】
重く深く哀しい出来事の連続する各エピソードを、過不足なくまとめあげたギジェルモ・アリアガ。いくぶん説明過多と感じる場面はあるものの、出自も背景も目的も価値観もバラバラな人々の生きかたを1つのテーマへ向けて収束させてみせて、さすがの脚本である。
しわもたるみも克明に映し出し、その土地の温度や匂いや空気の質感までをもフィルムに刻み込んだロドリゴ・プリエト。日本パート(特に屋外など自然光で撮られたシーン)はスミがかかってボヤけた色調で、少なくとも東京では格調ある絵は撮れないなということを痛感させられるのだが、それもまた“その土地の、まんまの姿”であって、さすがの撮影である。
出しゃばらずにしっかりと「オッサンになった夫」を演じていたブラッド・ピット、グラスの氷を捨て去る際の一瞬の視線の動きに女優としての魂を感じさせたケイト・ブランシェット、上下左右どこから見ても「働き者で気のいい不法就労のメキシコ人」以外の何者でもないアドリアナ・バラーザ、救われない者の刹那的生きかたと感情の起伏を上手に自分の中で消化したうえで表現した菊地凛子、出番は少ないながらも抑制の効いたウエットな芝居が印象に残った二階堂智、そしてナチュラルな4人の子どもたち、みんなさすがの演技である。
菊地凛子のオスカー・ノミネートは、出演者それぞれが同じベクトルで仕事をし、同じくらい高いクォリティの演技を見せたことに対する、キャスト全体へのご褒美的な意味合いがあったのではないだろうか。
そして、相変わらず確信的・情熱的で、人の“生”へグイグイと踏み込んで臨場感あふれる映画を創り上げたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督。クロスオーバー・エピソードであることが必要以上に“あざとさ”とならないよう気を配った編集、広がり感と疲労感とを同時にもたらす音楽の数々、細かな音まで拾い上げて観客をその場に叩き込むサウンドメイクなども含めて、さすがの演出である。
だってさ、釈放(強制送還)されて息子と再会する場面でのアメリア、左手にビニール袋1つだけを持っているんだよ。そのリアリティの凄さって、どうよ。日本のホントなんかコレっぽっちも知らないはずなのに、渋谷の若者たちの「お前らは時代の被害者であり、ゴミでもある」感の再現力の高さって、どうなのよ。
演出の鮮度としては『21グラム』に一歩譲るが、1本の映画としての完成度やメッセージを具現化することの成功度合い、転んで起きて走ってまた転ぶ人間という生き物の愚かさとナマナマしさを描き切ったという点では、本作に軍配が上がるだろう。
では、込められたメッセージとは? テーマとは?
基調となっているのは“異なるもの”であろう。どの国のシーンでも、ふだん聴かないような音楽が画面に乗っけられる。僕らの目にモロッコやメキシコが“遠く”感じられるように、多くの人にとって日本は奇妙な存在として映るだろう。
あれは墓だったのかという驚き。撃つことと裸を覗き見ることが同一線上で語られる衝撃(あるいは、どちらも同じく罪だということの妥当性)。大騒動のすぐそばでサッカー観戦を楽しむ人々。荒野と都会のコントラスト。
そこに漂う、強烈な違和感。思えば、バラバラにされた時制というイニャリトゥ監督ならではの作劇法も「カッコよくないブラッド・ピット」も、観る者にとっては違和感の因となるものであるはずだ。
あなたと同じ価値観や趣味嗜好を、世界中の誰もが持っていると考えるのは間違いだ。いや、国籍や民族の違いだけが“異なり”を生むのではない。あなたが見ているものを、あなたの周囲にいる人々は、あなたと同じように見たり感じたりしているわけではない。そして、あなたも私も彼も彼女も、ゆらゆらと揺れる不確かな価値観の中で生きているのだ。
その事実を鋭く突きつけてくるのが、明滅激しいクラブでのシーンと、チエコがブランコをこぐ場面。奇しくも「鑑賞中に気分が悪くなったと訴える人が続出した」とされる2つのシーンだが、それは発作的な症状や酔いなどではなく、“私とあなたは、わかりあえない”ことを思い知らされて、それで絶望感に駆られたのではないか。
心にあるものを伝え、わかりあうこと(真の意味でのコミュニケーション)は、とてつもなく難しいことなのだ。それこそが、バベル。
が、本作はその絶望の中に沈み込んだままでは終わらず、わずかな希望の灯も示す。
監督自身はcompassionという言葉を使っているが、これは「哀れみ・同情」ではなく「思いやり・いたわり」と訳すべきだろう。あるいは相手の身体と心に近づき理解しようと努める姿勢。『モンスター』の感想で述べた「想像力」でもいい。
スーザンはリチャードの手に我が手を重ねようとした。一瞬だけ寄せ合う腕ははかないけれど、そこには確かに、愛し合った者たちだからこそ感じ取れる心の温もりがあるはずだ。
リチャードは、アメリアの息子の結婚式の日取りをちゃんと覚えていて、(後に覆すものの)出席してやれという。それは、世話になっているアメリアに対する「いたわり」に他ならない。
ユセフの記憶には、しっかりと兄アフメッドと過ごした楽しい時間が刻み込まれていて、その時間を取り戻せないことに対する悔恨と惜別が、兄の魂への「いたわり」となり、ユセフ自身の今後の生を想像する糧となって、彼を人間世界へと引き戻す。
若い刑事がチエコの刹那的な生きかたを拒絶するのも、刑事としての職業的倫理観からではなく、彼女の行為には理由があるはず、その理由を知ったうえで自分にできることを探したいという、「想像力」と「思いやり」ゆえのことだろう。
自らを化け物と蔑むチエコだが、それは「私は化け物なんかじゃない」と自分自身に認めさせたい、そんな心の裏返し。渾身のメモ(ここ、身震いするほどの名シーンだ)は、まだ自分を救うための道が残っていることを信じたい彼女の叫び。本当のチエコを捨て去っていないことの証であり、決して化け物なんかじゃない自分自身への「思いやり」なのだ。
そして、たとえ価値観は違えど、砂漠にメルセデスやトヨタが走っているように、世界はつながっているのである。さまざまな職種や人種、アルフォンソ・キュアロン、ショーン・ペン、ナオミ・ワッツなどが並ぶエンド・クレジット(バレーボールのコーチはヨーコ・ゼッターランドだったな)からもわかるように、僕らが生きているココは「多くの人からなる1つの世界」なんである。
だから、この時制の解体・再構築は「すべての時間、すべての空間に、さまざまな人が生きている」ことを伝えるための手法なのだ。
こうして共同作業の成果として優れた映画を作り出せるならば、僕ら人間は絶対に「心にあるものを伝えることのできない」生き物ではないはずだ。
ほんの10秒だけテレビに流れるニュースの裏に、これだけ多くの人の苦悩が潜んでいる。延々と連なるマンションの窓の明かりの下には、それぞれに叫びを抱えた人が暮らしている。
自分とは異なるけれど、そこに確かに存在し、世界を構成している人たちがいる。その事実をきちんと理解し、それらの人々に思いやりといたわりをもって接し、想像力を働かせることが、僕らを絶望から救う道なのではないだろうか。
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