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2007/06/26

ガタカ

監督:アンドリュー・ニコル
出演:イーサン・ホーク/ユマ・サーマン/ジュード・ロウ/ローレン・ディーン/アラン・アーキン/ゴア・ヴィダル/アーネスト・ボーグナイン/ザンダー・バークレイ/トニー・シャルーブ

30点満点中19点=監4/話3/出4/芸4/技4

【エリートになりすました男】
 土星の衛星タイタンへ向けてロケットを打ち上げ続ける企業、ガタカ。入社には厳格な遺伝子チェックをパスすることが必要で、さらに宇宙飛行士として選ばれたものは正真正銘のエリートといえた。週末にロケットへと乗り込むことを予定しているジェローム・モローだったが、社内で殺人事件が発生する。被害者はジェロームの素性に疑問を抱いていた上司。実はジェロームは“不適合者”のビンセントであり、他人になりすましているのだった。
(1997年 アメリカ)

★ネタバレを含みます★

【生きることは絶対なのか】
 サスペンスである。
 カットバックを用いたり、にじむヘッドライトを走らせたり。あるいは無機質な顔を持つイーサン・ホークやユマ・サーマンやジュード・ロウが、眉のあたりに微妙な焦りと苦悩を浮かべたりして、ビンセントがジェロームに扮していることがバレやしないか、という緊迫感をキープする。
 マイケル・ナイマンが紡ぎ出す深い陰影のある音楽も、スリリングかつ重厚な空気で展開を彩る。

 SFである。
 遺伝子操作によってエリートが生み出される社会、血液チェックのための携帯端末、そうした設定やガジェットの見た目以上に「科学の発展は決して平等で平和な社会を作るのに貢献するわけではない」「データだけが重視される商業主義社会」といった批判精神を打ち出しているあたりにSFマインドを感じる。
 汚染されているであろう海、幾何学的な街や建物や住まい、そこに走るのはクラシックなクルマ、流れるのはクラシックな音楽、着られるのはトラディショナルな衣装。そのアンバランスさも“異様な未来”を生み出す元となっている。
 スワヴォミール・イジャックの撮影は、常に黄昏色に染まっている世界を創り出す。『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(デヴィッド・イェーツ監督)でも撮影監督を務めているらしく、もうそれだけでハリ・ポタの新作が楽しみになるほど独特の品格を持つ“質感”だ。

 だが実は、SFサスペンスとしてのたたずまいはオモテの顔。そのウラには昨今の自殺増加問題にもつながる「人は何のために生きるのか」「生きることは絶対なのか」といったテーマが見える。

 現代社会に暮らす人々は、たとえば同じ土地に生まれた人であれ同じ電車に乗り合わせた人であれ、見えない壁によって住む世界は厳格に隔てられている。学歴、収入、宗教、趣味嗜好……。壁を作り出す素因は、それこそ無数に存在するだろう。
 本作ではそれを、遺伝子の優秀性や身体の丈夫さ・知能の高さ、というよりも“確率”であると定義している。病気になる確率と平均余命、それによって左右されてしまう人生。なるほど確かに、成功する確率が99パーセントのAと1パーセントしかないBがいるとするなら、投資のセオリーとしてはAに賭けるべきだろう。なんとも数学的な社会。

 これは同時に、A群には蹉跌の道を歩むものが1パーセント存在し、B群には成功に至るものが1パーセントいることを意味する。
 成功が約束された99パーセントの人々であっても、自己実現のためには鍛錬が求められるはずだ。12本指のピアニスト(ここでは遺伝子操作によって人工的に産み落とされた人物だと解釈している)は、他人より指が多いという優位さが単に“あった=be”だけではなく、その優位さを生かすための厳しいレッスンという“おこない=do”を求められたことだろう(たぶんA群の人たちには、努力を好むという性質が遺伝子操作によって組み込まれていると思うが)。
 いっぽうB群の人々には、失敗者となる運命があらかじめ“あり=be”、1パーセントの勝ち組に入るためには、ただ運命と確率に身をまかせるだけでなく、強い意志をもって狭い確率のトビラをこじ開けようとするチャレンジを“おこなう=do”ことが必要となる。
 そう、確率がどうあれ、成功のためには常にdoが必要なのだ。

 ビンセントはまさしく“do”の人であったわけだが、そこには多大なる痛みがともなう。「たとえやり通せたとしても、その先には何もないかも知れない」という不確かな動機をもとに、愛する人を置き去りにしてでもdoに徹する、そんな悲壮感とともに生きていかなければならないのだ。運命と確率に身をまかせるよりも、はるかに過酷な生きざまだろう。
 それでもまだ、彼が成功を手に入れて満足を得たのなら救われもする。そして彼は目的を達したように思われる。が、ビンセントの行為は、彼自身が認めているように、あくまで逃避である。またユージーンの助けがあり、アイリーンやアントンやドクター(ザンダー・バークレイがまたカッコイイんだわ)の黙認もあった。彼は決して自らの意志のみによってdoをまっとうしたわけではないのだ。
 ビンセントが運命と確率に抗い、1パーセントのトビラをこじ開けたのは紛れもない事実だ。しかし、そのdoが果たして正しいものであったのか、ロケットへと向かう通路でビンセントは思いをめぐらせたことだろう。

 運悪く「1パーセントの落伍者」となったジェローム・ユージーンには、まさに不運が“あった=be”だけなのだろう。だが彼はそれを認めようとしなかった。ユージーンの行為は、自死などではなく、自分は不死身であり依然として99パーセントの成功者に属しているのではないか、そんな期待とともにおこなったことのように思えるのだ。
 いや覚悟はあったのだろう。自分の遺志をビンセントに託す気持ちもあったはずだ。けれど「ひょっとすると」という思いもあり、それを立証する意味も持つ死という“おこない=do”だったのかも知れない。

 ビンセントもユージーンも、自己実現のために“do”したわけだ。

 この構図は、そっくり現実社会にも当てはまる。いじめる側に回れば生き残る確率は増し、いい大学・いい企業に入れば自己実現に近づく可能性は高まる。そこからドロップアウトして死に急ぐ若者、その自殺は、ただ悲嘆によるものではなく、彼らなりのdoでもあるはずだ。なにもせずbeのままでいることもできたが、あえて死というdoを選ぶ彼ら。
 ただ、1パーセントのトビラ(それが逃避へと向かうトビラであれ、不遇をバネにして成功をつかむためのトビラであれ)をこじ開けるだけの意志を持てず、誰かに思いを託すこともできず、短絡的に死とdoとを結びつけてしまった彼ら。
 死なんてただの自己満足のためのdoであり、自己実現にはならないというのに。

 もちろん科学の発達やシステムの成熟が、落伍者を生まない社会、たとえ生んだとしても無益なdoを選ばせない社会を作るために機能すればいいのだけれど、人というものは、格差を望む生き物だから、やっかいだ。

 淡々と、あるいはヒリヒリと、冷たく、システムの中であがく何人かの人間の生きかたを描いた本作。その静けさの中に、さまざまなことを考えさせる種を抱え込んだ、パワーのある映画だと思う。

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