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2007/07/14

8月のクリスマス

監督:長崎俊一
出演:山崎まさよし/関めぐみ/大倉孝二/西田尚美/戸田菜穂/井川比佐志

30点満点中16点=監3/話3/出4/芸3/技3

【写真屋のおじさんの、最期の日々】
 富山県高岡で小さな写真屋を営む鈴木寿俊は、余命わずかと宣告される。事情を知らない親友リョウジから女性を紹介しようかと持ちかけられるが、それを断り、自暴自棄になるのをぎりぎりのところでこらえ、寿俊は淡々と残された月日を過ごす。ある日、近くの小学校で臨時教員を務める高橋由紀子が店に訪れ、ふたりはたわいもないお喋りを繰り返しながら、次第に距離を縮めていく。だが寿俊には最期のときが、由紀子には転勤が迫っていた。
(2005年 日本)

【映画らしさは少ないが、内容的にはそこそこ】
 いきなりデッドラインを突きつけられたら、たぶん寿俊のように「逝った後」に備えてひとつひとつの作業をこなしていくのだろうな、と思う。
 限られた時間。特別な時間。けれど、できることなんて、たかが知れている。おなら幽霊とか、アイスクリームの早食いとか、グダグダになった記念写真とか、バカな話をしてバカなことをやって、そのバカな一瞬が誰かの記憶に残るのなら、それでいいのかも知れない。

 でも最後の最後には、書かなくていい手紙を書いたりする。いわなくていいことを伝えたりする。ひっそりと去っていくほうがカッコイイと思いながらも、つい身勝手に、自分の存在証明をこの世に刻もうとする。
 せめてその想いがのこされた人にとって重荷にならなければいいのだが、それこそまさに身勝手な願いである。

 そんなこんなを考えながら、ときには泣きながら、ただ淡々と、粛々と、できれば明るく振る舞って、その日を待つ。それは地獄に落とされること以上の地獄ではあるだろうけれど。

 あまりに寿俊の様子が淡々としすぎていて、時間が普通に流れていく映画である。微妙に緩い“間”が居心地の悪さを呼ぶこともある。
 ただ、その“間”の中に主演ふたりはピッタリと収まる。関めぐみは、序盤ではやや本人のイメージと役柄との乖離が気になるのだが、バスケをしたり雨に濡れたり髪を上げたり、さまざまな表情を見せながら次第に作品の中へと馴染んでいく。それをすっぽりと覆い包む存在として、イヤミのないインテリジェンスと色気とを醸し出す山崎まさよしもまたベストのキャスティングだったろう。

 過剰な説明を排して「見せてわからせる」配慮が施されていることにも好感を覚える。オープニングで見られる診察室の様子、校庭でしかられている由紀子、冷えすぎないよう調節されるエアコン……。
 また、ちょっとした仕草・行為に意味を込める手際もいい。去っていくクルマの窓から伸びるバイバイの手。ひとりで写真を撮るよう促される老婆。草木に水をやる父の姿には「ああきっと、由紀子からもらった鉢植は、寿俊の死後も枯らされることはないだろう」という感慨を抱く。
 野暮ったくはあるが、なかなかに深みのある映画だ。

 その野暮ったさ、というか、作りの“詰めの甘さ”が欠点となる。たとえばラストのナレーションは不要だったろう。せっかくここまで淡々粛々の空気を持続させ、観客に想像や読解の余地も与えているのだから、手紙を読んでいる由紀子の表情だけで十分だったはずだ。
 全体にTVサイズの絵作りだし、100分強でまとめたりブラックアウトが挟まれたりしているのも「TVで放送しやすいように、ってことね」と感じられて興ざめだ。

 そして、見た目がどうにも地味だ。舞台があり、人がいて、それをただこっちとあっちから種類の少ないレンズで撮っている、というイメージ。
 別に派手にする必要のない内容なのだけれど、「そのカットは、本当にそのアングル、そのフォーカス、その長さが妥当なのか」という点について、確固たる自信を持っていないような絵作りだと感じた。

 そうした点が“映画らしさ”の生成を阻害して評価は低くなるが、16点の割には「観て損はなかった」と思える内容だったように思う。

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