大日本人
監督:松本人志
出演:松本人志/竹内力/UA/神木隆之介/海原はるか/長谷川朝二/板尾創路/宮迫博之/原西孝幸/宮川大輔/橋本拓弥/矢崎太一
30点満点中19点=監4/話4/出3/芸4/技4
【日本最後のヒーロー、大日本人・大佐藤】
ドキュメンタリー番組のカメラの前で、日常や心情を訥々と語る男、大佐藤大(だいさとうまさる)。彼こそは最後の“大日本人”だ。かつては英雄としてもてはやされた大日本人だったが、それは彼の祖父である四代目までの話。六代目の大は、妻や娘に逃げられ、世間からは疎まれ、躁鬱の中に生きている。今日も彼のポケットで、携帯電話が鳴る。それは防衛庁からの司令。日本を悩ませる獣(じゅう)に立ち向かうため、彼は電変場へ向かう。
(2007年 日本)
【笑えない“お笑い”という、この人のありかた】
もう20年も前のこと。とあるお笑いのコンペティションにダウンタウンが出場していたのだが、決勝戦は持ち時間を大幅に下回るわずか20秒ほどの演目(どんなネタだったかも鮮明に記憶している)、しかも審査員席に座っていた作家の「もっと時間を有効に使って欲しかった」という言葉に対して「なんでお笑いやないモンがお笑いの審査すんねん」「もう二度とこんなとこ来るか、ボケ」と毒づいてふたりは帰っていった。
同時期の別番組で、司会の島田紳助が若手芸人たちに「目標とする先輩」を尋ねたとき、みな一様に真面目な返答を続ける中で松本だけが「なんでコイツら、こんなおもろない話しかせえへんねん」という表情を見せ、自分の番では「桂銀淑」と答えてひとりだけ笑いを取ったことがあった。
いわゆる“お笑い”であり、しかも骨の髄まで“お笑い”に取り憑かれている松本人志ではあるが、もし監督として“お笑い”に走って映画を撮ったなら失敗する、というのが最初の予感。
なぜならば。
この人、本来は多数の引き出し(お笑いについても映画についても)を持っているはず。なのに、老人や動物が見せる、計算ずくの脚本・演出では引き出せないリアクションに対して「あれがいちばん面白い」と語り、不条理性やシュールさやアドリブになり切らないアドリブ、あるいは「なんとかしようと一所懸命になるけれど結局はワヤクチャでグダグダになってしまうという笑い」だけを重視している(ように思える)からだ。
即物的で明日にはもう忘れ去られてしまうテレビなら、その方法論も通用するだろう。ポコっとアクセント的にアドリブを効かせるというのもアリかも知れない。
だが映画という舞台で、ウェルメイドを好む映画ファンを向こうにまわしたときに、松本の方法論だけで押し通すというのは果たしてどうなのか? しかも、どうしたって「映画をあくまでも映画として撮る」北野武と比較されてしまう状況もある。そもそも松本は映画を“喜劇”として捉えているらしく、つまりちゃんと“お笑い”とは区別している人なのに、あえて“お笑い”を武器に映画の世界へ切り込んでいって大丈夫なのか?
ところが、意外な裏切りにあう。
ドキュメンタリーの手法が張り詰めた空気を醸成させていく。極端なまでにカット数は少なく、それが逆に、画面の端から端まで、動きのひとつひとつを凝視させてしまうという巧みさ。そうしてまったりと流れる時間の中にドンと驚きを突きつけることの巧みさ。
CGは真剣に作られているうえにクォリティも水準以上(これが後になって効いてくる)で、住まいや落書きや立て看板、電変場の朽ちた文字などで大日本人の置かれた環境をクッキリと炙り出す美術も見事。作品世界のイメージを律儀に体現する音楽もいい。
ただ「撮る」のではなく、ちゃんと「つくる」ことにこだわった仕上がりとなっていること=映画として成立させようという配慮が、まずうれしい。
そのうえで“お笑い”を目指す。次第に取材対象をナメていくインタビュアーと、それに対する大佐藤本人(黙り込む!)の受け答え、あるいは素人の起用は、松本監督の志向する「アドリブが引き起こす思いも寄らないグダグダ」を具現化するものであり、まさにそれで押し通していく。あり得ない獣(じゅう)たち、あり得ない英雄像。犬、猫、老人というこの人の笑いには欠かせないパーツもたびたび登場する。ただし、表面上は「これはお笑いじゃありませんよ」という顔をして。
そう、ピリピリしたリアリティの中に、ひっそりと仕込まれる「なんでやねん」。
このあたりは監督の狙い通りの仕上がりになっているはずなのだが、それらはやっぱり、完璧にハズシまくる。予感通りに。
だが単にハズすというより「即物的な“お笑い”ではなく、なんらかのメッセージとして受け取らざるを得ないものに転化してしまっている」。そのメッセージを理解したうえで笑えるかどうか、あるいはメッセージそのものを嗤えるかどうか、という、これは果たし状。「なんでやねん」のツッコミひとつでスルーできない、そんな映画になっているのである。
クルマに乗せられた犬の姿は、なんでもかんでも慰み物にしてしまい、その行為を優しさだと勘違いまでしている人間の醜さを表し、本作中でも述べられている「軽んじられる命」を感じ取るアイコンとしても機能する。
無責任に街頭でのインタビューに答える市民たちの、以前はもてはやしたものをたやすく突き落とす移り気な価値観。大日本人もアメリカン・ヒーローも結局は地球人や日本人の利己的欲求によって行動しているのであり、彼ら英雄を主役とするプログラムは子ども向きの無害なもののように思えて、実はリンチにほかならないという皮肉。
四代目とは、松本が敬愛するという藤山寛美や、ダイラケ師匠、いとこい師匠らの世代を指すのだろう。その次の代、漫才ブームからひょうきん族にかけての“父の世代”は、政治や芸術に関心を示したりして、必要以上の肥大化を目指した。
そして六代目は往く。心にあるものは何か。いまや“仮想”ではなくなった敵国からの脅威にも鈍感な目を向ける愚かな大衆を相手にして“お笑い”を続け、それでもプライドを保ち続けることの孤独。男気を、一発の持ちネタだけであらゆる状況を乗り切ってしまう芸人を、エロを、お涙頂戴を、監視の目を、駆逐したり取り込んだりしながら“純お笑い”として戦っていくことの苦悩。後に誰も続かないことの悲哀。そうして自らが、原西孝幸のごとき「低レベルの即物」的存在がチヤホヤされる土壌を作ってしまったことへの悔恨(ただし「とてつもなくつまらないネタを大真面目に、しかもやってはならないところで空気を読まずにやるという原西の存在的・状況的面白さ」は、松本的には肯定すべき笑いとなるのだろうが)。
そんなこんなで、反テレビを標榜しながらもテレビの現状を作ったのは自分たち六代目であることに対するエクスキューズと責任感をもとに、内省的な叫びとしてこの映画は誕生したのではないだろうか、と感じるのだ。
当初、松本人志の役者としての引き出しが1つだけ(ふだんは右足に体重をかけて歩き、儀式前には颯爽と進むという作り込みには魂を感じたが、それ以外はコントと同じ芝居だった)であることを残念に思ったのだが、大日本人・大佐藤が松本自身を投影した存在であるのなら、自演も当然だ(もちろん「うわ、松っちゃんが真面目に芝居してるで」と思わせることも笑いの仕掛けなのだが)。
ただ、その叫びを映画というカタチにしてしまった気恥ずかしさもあったのだろう、最後はやっぱりグダグダへと本作を収束させていく。六代目の中にある“お笑い”を矮小化して受け継ぐ七代目たち(宮迫や大輔は好きだけれどね)に主役の座を譲って。
加えて、映画という他人の畑に踏み込んだ者の義理・けじめ(または情報を過多に晒したうえで本編を見せる昨今の映画界の風潮に対する反論)として、内容を公開まで秘密とし、劇場用パンフレット/プログラムを袋に封入してみせる。
そこまでを含めて、実に面白い。笑えない、そして(けれど)面白い、という奇妙な作品。案の定、賛否両論のようだが、これを「面白くない」という、お前の生きかたこそが面白くない、といいたいほどに、あれやこれやに満ちている。
まぁひょっとすると(むしろ、確実に)、こうした読み取りを本人は「いゃあ、まぁ、ちょっと、というか、かなり違うんですけれどね」とでもいうのだろう。だが、うれしい裏切りであったことは事実だ。
極私的なテーマ、作り込み、見せかた、あくまでも“お笑い”を中心に据えたこと、あらゆる点で「松本人志にしか作れなかった『映画』」であることは事実だ。
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コメント
原西孝幸ファンは、本稿の表現を不快に感じられたかも知れません。おわびいたします。すいません。
投稿: たにがわ | 2007/07/06 08:12
普通に原西の方がおもろいやろ。
投稿: 厚顔無恥やね~ | 2007/07/06 02:30