ココニイルコト
監督:長澤雅彦
出演:真中瞳/堺雅人/中村育二/小市慢太郎/黒坂真美/原田夏希/阿南健治/不破万作/近藤芳正/久保京子/稲森誠/島木譲二/笑福亭鶴瓶
30点満点中17点=監3/話4/出4/芸3/技3
【私がここにいることを思う】
広告代理店勤務のコピーライター・相葉志乃。幼い頃、流れ星への願いも空しく父を亡くしてしまった彼女は「何も信じない。何も期待しない」という人生を送っていた。不倫相手である上司の妻から手切れ金を渡され、大阪支社の営業部へと飛ばされた志乃は、同時期に中途入社した前野悦朗のマイペースぶりに振り回されることになる。彼の口癖は「ま、ええんとちゃいますか」。そんな前野にも、大きな秘密があることを志乃は知る。
(2001年 日本)
【ま、ええんとちゃいますか】
停滞。そんな言葉が浮かんだ。
だって物語の最初と最後で、志乃は一歩も前進していない。不倫相手・橋爪常務のことは振り切ったようだけれど、所詮は「何も信じない。何も期待しない」という生きかたを、ただ前野くんに「ま、ええんとちゃいますか」と肯定してもらっただけの数週間じゃないか。
それに、志乃が創ったコピー。確かにこの映画では「目に見えない幸せが積み重なった人生」が1つのテーマとなっているわけだけれど、彼女の生きかたや前野との触れあいから“ポン”と出てくるものとしては、ちょっと性急で不自然だ。
映画的な「!」も少なく、ふつーに撮られている。というか「あ、ここ、こういう風に撮ってみよ」と思いついたまんま絵にしたような感じ。
1カットをジックリと長めにすることで“映画っぽさ”を出そうとしているけれど、それも空回り、冗漫になっている部分も見受けられる。
が、時間が経つにしたがって、そうした不完全さや停滞感が温かさに変化していく。いわば「モロくて、停まっているように見えるけれど、実は微妙に変化している人間」というものが本作のキモだろう。
たとえば大阪支社・営業の山田と制作の大伴。ふたりとも扱いは劇中一貫している。なのに、最初はガミガミとうるさいだけだった山田が、軽薄そうな大伴が、「志乃が自分自身を肯定した」うえで見ることによって憎めない人物に思えてくる。また、かつては志乃を拒絶した雪も、こんどは彼女を優しく包んでくれる。
いまの自分を幸せの集積体と捉えることで、周囲の景色だって変わって見えるわけだ。
当初、やたら大阪大阪しているところも癇に障るなぁと感じたのだが、そこに阪急ブレーブスを持ってきたのは粋だ。阪神タイガースという純関西的な記号には一切触れず、「あの時の停滞していた自分に対する怒り」の象徴として消滅した(買収された)球団を据えたことで、「でもそんな自分も一応は肯定して前へ進もう」という本作のテーマがクッキリと炙り出されることになる。
極みはラストカット。前野は志乃に対して直接的に影響を与え、肯定することの幸せを思い出させてくれたけれど、そんな前野も誰かからひっそりと知らないところで、小さな幸せを勝ち取るためのサポートを受けていたことを僕らは知ることになる。
ああこうやって、「目に見えない幸せが積み重なった人生」は出来上がっていくのだなぁと、心が温まる“締め”である。
温かさの源として、キャスティングも大きいポイントだろう。中村育二、小市慢太郎、島木譲二といったネイティヴ・関西弁スピーカーを配することはこの映画にリアリティをもたらすための絶対条件だし、黒坂真美も原田夏希も可愛くて清涼剤として機能する。
そして、堺雅人である。“喜怒哀楽のすべてを笑顔で表現する”この人の凄みが十分に生かされているとはいい難いが、とらえどころのない前野という人物を、悲劇的にではなく、必要以上に重くもせず、「そこにいてくれた人。私がここにいることを肯定するキッカケをくれた人」として過不足なく演じられるのは、まさしく堺雅人だけだったろう。非ネイティヴ関西人であることをあまり意識させない発音(一瞬の巻き舌なんて、かなり研究したんだろうな)もなかなかのものだったし。
心にドカンと迫るわけではないけれど、たまには柔らかぁく、あんまりパっとしない人生や自分自身を肯定するこういう映画があっても、ま、ええんとちゃいますか。
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