ハチミツとクローバー
監督:高田雅博
出演:櫻井翔/蒼井優/加瀬亮/関めぐみ/堺雅人/西田尚美/銀粉蝶/中村獅童/伊勢谷友介
30点満点中16点=監3/話3/出5/芸2/技3
【片想い。あきらめない恋。やり直す夢】
美大・花本ゼミの生徒を中心とする飲み仲間たち。城や寺社などの日本建築を愛する3年生の竹本は、自由奔放に色とカタチを放つ新入生のはぐみに恋をする。だが、はぐみに影響を与えて筆を取らせるのは、8年も大学に居ついている森田の才能。その森田は、やりたいことと現実との狭間でゆらゆらと漂う。バイト先の理花に心を寄せる真山、そんな真山を見つめ続ける山田。それぞれの想いがキャンパスと浜辺に流れていく。
(2006年 日本)
【こういうお話はね、縦糸を疎かにしちゃいかんのよ】
原作は未読。なので、もともとどういう話でどういう表現・描写を特徴とする作品なのかは知らないのだが、映画を見る限り、とても大ヒット作とは思えない内容。世のマンガ読みたちの眼力を信用するなら、原作はもっと優れたもののはず。つまりこの映画は失敗作ということになるのだろう。
だって、お話として面白くないんだもの。もちろん映画としても。
若者の特権である“惚れたフラれたの、意味のない日々”をウラウラと流しただけのストーリー。しかも、芸術という縦糸を据えていながら描写は立体的にも絵画的にもならず、グラフィティにとどまってしまっている。
まぁ登場人物それぞれを等分に扱っているので多視点的なグラフィティであるのはいいとしても、絵作りのバリエーションが少なく、たとえば“森田の彫刻を見たはぐに寄っていくカメラ”に見られる鮮やかさが足りず、あるいは「ぜんっぜん悪くねぇ」「いい加減、負けることを覚えないと」といった作品の真理につながるセリフを工夫もなく撮り、季節感も冒頭のサクラ以外はゼロ、邦画特有のノンビリした間で埋め尽くされていて……と、なぁんかフツー。
竹本たちの日常も、映画そのものも、戯れ言に思えてしまう。
そんな“若者たちのグラフィティ”の中で光を放つのが、本作に脇役として散りばめられた大人たちである。「描きたいから描く」「描かざるを得ないから描く」という情熱のほとばしりを目を細めて見つめる花本先生、絵を描いて生きていくことの現実を叩きつける幸田先生やオカマちゃんブラザーズ、言葉少なに竹本の思いを受け止める修復士。彼ら大人のほうが、惚れたフラれたの若造どもよりもよっぽと“切実に世の中を生きている者”としての存在感がある。
その切実さに足を踏み入れようとする森田の苦悩こそが、本作のクライマックスといえるだろう。もうね、好きですよこのキャラクター、マンガだけにわかりやすすぎるんだけれど。
自分の作品を称して「子どもを私立の学校に入れるときの足しにしろ」っていうところや、後輩たちに「凡人たちよ」と呼びかけるところが、いい。森田自身が「俺の作品には将来どれくらいの値がつくか」と計算をしてしまっているのだ。「俺は凡人じゃない」と思い込もうとしているのだ。夢と現実の狭間で揺らぐ切実さが、この人の中に棲んでいる。ガキから大人へと脱皮する者だけが持つ悲しさを持っている。
演じた伊勢谷友介にある虚無感と熱さともあいまって、プラモデルを組み立てているだけの竹本とかバッグをぶら下げてフラフラする真山たちなんか、完全に食ってしまっている。
そんな森田にぶつかっていくはぐもまた、実は、竹本や真山や山田よりもずっと大人(というか、精神年齢が上)であるはずだ。大人だからこそ、自分の中に生まれたものを後先考えない行動で昇華しようとはせず、じっくりと整理しようと試みるのだ。
こうした魅力的な大人たちのおかげで、本来は主役であるはずの竹本や真山や山田らガキんちょたちが、薄ぅくなってしまっている。
思えば、ここで“大人”としてあげた人たちは、みんな縦糸=芸術にピッタリと絡みついている。いわば「この物語が、美大や芸術の世界を舞台としていることの必然性」を体現する人物たちだ。ガキどもよりも切実で実在感があるのも当然といえば当然だろう。
が、その“必然性”はワキへ追いやられている感じ。いやいや、この部分を太くクッキリと描いてこそ、そこで開く恋や人生も太くクッキリと浮かび上がり、物語に厚みが生まれるはずなのに。
加えて森田やはぐが示しているはずの才能を、映像で伝えられなかったのも痛い。ここが上手く処理されていれば、もっと切実さが増し、竹本がはぐや森田に対して抱く「持たざるものの絶望感」だってキリキリとしたものになっただろうに。
ま、才能のない人に才能を具現化することは無理なんだけれど。
そんなわけで、蒼井優をオレにくれ。っていうか、もらう。
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