ピアノの森
監督:小島正幸
声の出演:上戸彩/神木隆之介/池脇千鶴/福田麻由子/田中敦子/松本梨香/田中真弓/宮迫博之
30点満点中17点=監4/話2/出3/芸4/技4
【森の中のピアノと、ふたりの少年の物語】
父のようなピアニストになるため、幼い頃からトレーニングを続ける雨宮修平。東京から中部の田舎町へと越してきた彼は「森の中にある音の出ないピアノ」の噂を聞く。が、クラスメイトの一ノ瀬海だけは「あれは俺のピアノ。ちゃんと音も出る」と言い張り、実際に海は修平の心をときめかせる演奏を披露する。ピアノの元の持ち主で、かつて天才と謳われた阿字野壮介も海のピアノを聴き、彼をコンクールに出場させようとするのだった。
(2007年 日本 アニメ)
【最低限の責任は果たした】
修平にとってはピアノという魔物から解放されるための伏線、海にとってはピアノという魔物に憑り依かれる端緒。それが原作の、特に序盤におけるテーマだろう。
視覚的にいえば、悩みの中で自信なさげに垂れ下がった修平の眉は次第にキリっと引き締まるようになり、逆に快活だった海の表情には深刻さが宿るようになる。
もっと勘繰って、今後の展開を予想してみる(原作は読んでるけれど)。秀才・修平は目の前に現れた海という天才に叩きのめされ、この後も悩み続けるが、やがては「自分は天才ではなく秀才である」ことを認め、「秀才であることを貫こう」とし、その方法論に加え、家族の愛と努力に裏づけられた自信とをもって“修平のピアノ”を手に入れる。いっぽう海は、自分が天才であることに気づかぬままだが、秀才的要素の必要性には気づき、その取り入れかたに苦しみながらも、やがては“海のピアノ”を完成させる。
もちろん本作の時点では、終劇に至ってもふたりは、まだ己の進むべき道に確信を持ててはいないはずだが、少年期に訪れた“岐路”としての出会い・出来事が、本作の描こうとするものといえるだろう。
その点では誠実にまとめらた映画だと思う。夏休み公開=子ども向けということもあって台詞で語りすぎ、展開も性急(単行本約5冊を100分で処理したのだから当然だ)で各人の心情へは突っ込み不足、視点も海/修平/阿字野とフラついて、脚本のデキは決して褒められたものではないが、少なくとも、もっとも重要な「キミは……もっと自分のピアノを好きになった方がいい!」という言葉を盛り込んであったことを思えば、何を伝えたかったかという部分におけるフラつきはなかったはずだ。
ただ、そのあたりは原作から十分に読み取れることであって、わざわざ映画にしたからには“映画にした意味”を納得させてもらいたいもの。ここで本作は当然のように、原作(漫画)では表現できない要素=音に対して、徹底的にこだわることになる。
とにかく、音。虫や犬の鳴き声、クルマや電車の走行音、喧騒、風に揺れる木の葉、そしてBGM……と、アニメとしては「やりすぎ」と感じられるほど密度の高いサウンドが全編に盛り込まれ、観客の聴覚を体表へと引っ張り出す。それはもちろん、もっと聴かせたい音=ピアノへの準備体操。そういう意味ではしっかりしたプランニングといえる。また、テレビでは、ピアノも含めてすべての音の質感や強弱までは表現し切れないから、劇場映画という選択は正解だったはずだ。
それらの音が浮いてしまわないよう(平面的なところもあったが)背景美術も頑張って密度感を創出していたし(美術監督は『AKIRA』や『ベルばら』の水谷利春)、細かな表情や指の動き、舞台の明るさ・暗さを描き出した作画も上々だった。
で、いよいよピアノ。残響という姑息な手段を採った“森のピアノ”についてはまったく評価できないし、他の演奏もホールで聴くナマのピアノを再現できていたわけでもなく「音楽で泣ける」という域には達していない。が、修平の生真面目さ、誉子の健やかさと楽しさ、海の奔放さは音としても作画・見せかたレベルでも描き分けている。いちばん上手いのは阿字野、でも『子犬のワルツ』はブランクのある人が軽く弾いているっぽく、という感じも出ている。音楽を主題にした映画として最低限の責任は果たしているように思えた。
だいたい、天才・秀才といったって「地方に住む小学生」のレベル、こっちだってK.310のカデンツァなんて聴き分けられないレベルなんだから、妥当な落としどころだっただろう。
逆にいえば“音楽映画”にはなり切れていなかったわけで、また声のキャスティングには違和感ありあり(演技力はいいとして、全体的にトーンが高すぎる印象。ま、より多くの人に興味を持ってもらうための配役、コテコテの声優演技よりはマシと考えれば許容範囲か)、終わりかたも消化不良だったが、「ピアニストの作られかた・第一章」といえる“青春映画”には仕上がっていたのではないだろうか。
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