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2007/08/23

パリ空港の人々

監督:フィリップ・リオレ
出演:ジャン・ロシュフォール/マリサ・パレデス/ティッキー・オルガド/ラウラ・デル・ソル/ソティギ・クヤテ/イスマイラ・メイテ/ジャン=ルイ・リシャール

30点満点中18点=監4/話4/出4/芸3/技3

【ここはどこでもない、彼らは何者でもない】
 カナダ出身、国籍はフランスとカナダ、現在はイタリア在住で、妻はスペイン人という図形学者アルチュロ・コンティ。ひとり暮らしの父を訪ねるべくパリへとやって来たが、出発直前にカバンを盗まれたためパスポートも靴もない。そのため空港では入国許可がおりず、身元が確認できるまでの間、やむなくトランジット・ゾーンで一夜を過ごすことになる。そこには彼と同じく“どこの何者でもない”面々がたくましく暮らしていた。
(1995年 フランス/スペイン)

【わたしやあなたが何者であるかを決めるもの】
 わたし、あるいはあなたは、何者であるのか?
 ふだん付き合いのある人であれば日々の接触や言動から、あなたやわたしの人となりを理解・了承してくれているだろう(それだってカン違いに満ちているはずだけれど)。初対面の人は外観や肩書きであなたやわたしの中身まで判断するかも知れない。

 本作では、出身地、国籍、生い立ち、顔かたち、職業、倫理観、しゃべる言語など「わたしをわたしたらしめているモノ」がふんだんに撒き散らされる。が、結局のところアイデンティティの公式な集約体であるパスポートがなければ、現代の人間社会というシステム(少なくとも他国への移動というシーン)においては“何者でもない”のである。
 そして“何者でもない”人物には何をすることも許されない。実際には「本当に何者でもないのだが、とりあえず現代の人間社会というシステムにおいて身分を証明するもの(クレジットカードなど)を持っている」だけで大手を振り闊歩している人は大勢いるというのに。
 アルチュロが遭遇する「空港職員のお役所仕事」より以前に、そのシステムや慣例じたいが(便利ではあるけれど)理不尽かも知れない。理不尽だけれど、それが事実なんである。

 その理不尽さを、やんわりと笑いに包む。撮りかたとしては地味で大仰なところは一切ないんだけれど、落ち着きと節度と観やすさがあって手堅い仕上がり。映画としてのスケールは同様のシチュエーションを扱った『ターミナル』(スティーヴン・スピルバーグ監督)のほうが上だと思うが、本作は逆にコンパクトに「人の優しさとたくましさ。そんなヒトが作り上げてしまったシステムの馬鹿馬鹿しさ」といったテーマがまとめられていて、なかなかに面白い。
 ホテルやベンディング・マシンの便利さとか、檻に入れられたチンパンジー、箱詰めのガチョウなどといった隠喩が散らされる。また、国籍というシステムが単に“何者であるか”だけでなく“将来、何者になれるか”を決めてしまう怖さにも言及する。「1日の半分は夜。だから怯える必要はない」というセリフからは、正体不明のもの(ナニモノでもないモノ)に不快感を抱くことの愚かさも感じられる。
 空港での出来事をつづっただけのストーリーなのだが、けっこうギッシリ感のある物語だ。

 イライラと達観との狭間を行き来するアルチュロ、パスポートや国籍があったとしても自分が何者かを示せない(だろう)セルジュ、彼女自身であることを奪われたが懸命に実在証明の日々を送るアンジェラ、何者であることも拒否しているかのように見えるナック、ぎゃあぎゃあとわめいて「自分が何者であるか」を意識すらしないスザンナなど、キャラクターの配しかたもユニークだ。
 中でもゾラ君の存在が、清々しい。いま自分が何者であるのか、これから何者になりたいと願うのか、そのバランス感覚を本能的に体内で育み、実にたくましく自由に生きている。
 アルチュロも彼と触れることで、その自由意志こそが「わたしは何者であるか」を決めるものだと悟ったのだろう。
 自由な歩みを助けてくれる靴さえあれば、人は、自分が思う方向に進むことができる、なりたいものになれるのだと、ふたりの後姿が語っている。

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