遠くの空に消えた
監督:行定勲
出演:神木隆之介/大後寿々花/ささの友間/小日向文世/鈴木砂羽/伊藤歩/チャン・チェン/田中哲司/長塚圭史/六角慎司/石橋蓮司/大竹しのぶ/三浦友和
30点満点中17点=監4/話3/出4/芸3/技3
【その夏、僕らは信じてみようと思った】
田園が広がる馬酔村では、空港建設を進めようとする公団と、地主の天童を中心とする建設反対派の村民とがにらみ合いを続けていた。公団側の責任者となった父・楠木雄一郎とともに村へ越してきた亮介は、クラスメイトの公平やUFOと交信するヒハルと仲良くなる。望まぬ結婚を間近に控えた担任のサワコ先生、公平の両親、鳩を飛ばし続ける赤星、BAR花園のママなど、さまざまな人の思いが混沌としながら、ひと夏は過ぎてゆく。
(2007年 日本)
【バカ。それは最上級の褒め言葉なのだ】
デキのいい映画とはいえない。
一応は夏休み映画の顔をしながら実は、テント劇団を思わせるフリークスめいた人々、デフォルメされた悪党、イーハトーヴ的なガジェット、小学校の体育館で観た牧歌的フィルムのような出来事が混然とし、語りすぎるセリフと驚きや統制のない展開とともに無秩序な140分が流れる。
斬新さも、『世界の中心で、愛を叫ぶ』に見られたような映像面・構造面での映画的面白さもほとんどない。衣装や音楽やロケーションには“凝り”を感じるし、時代・場所の「わけのわからなさ」もよく出ているが、全体にススけていて、馬酔村の自然と空気を十分に捉えているとも思えない。
キャスト・クレジットのトップを目当てに観に行くと、特に肩透かしを食らうだろう。だって神木くん、正味70分くらいしか出ていないんだもの。
残りの70分は、サワコ先生とかチンピラとか父さんたちとか、大人サイドの描写に費やされ、視点はフラつく。
まぁ「身体、細っ」とか「お尻、小っちゃっ」と思わせるカットがあったりして全体に男前に撮れてもいるんだけれど、あくまで亮介は、この映画を形作る1パーツとして扱われているにすぎず(重要なパーツではあるが)、とても[主演:神木隆之介]と呼べる作品ではない。
ただ、それら混然としたパーツ群が向かう先には、心を打つと同時に切なくもなるメッセージが待っている。
興味深いのは、この種のファンタジーでは純心の象徴として扱われることの多い赤星のような存在を“罪なもの”として描いている点だ。
大人と子ども、という対比に思える作品だが、いやこれは、人と、人であることをやめようとした者の対比ではなかろうか。
たとえば立ちションとか自慰とか検便とかウンコ爆弾とかパンツとか夢精といった下半身ネタ=性を想起させるものがこれでもかと散りばめられ、それらは大人も子どもも包み込んでいる。
大人も子どもも暴力的で見栄っ張りで、すぐに価値観を曲げ、ユメの世界でだけ幸せになれる。
誰もが帽子を被っている。最初は何かの暗示か記号かとも思ったのだが、結局は大人も子どもも、たいして意味なく帽子を被っている。
また、かなりの部分で「なぜ?」が省略されている。自然保護のための空港建設反対、というのは建前にしか聞こえないし、空港建設の必要性についてはスルー。サワコ先生が結婚しなければならない理由も結婚してしまった理由もパス。亮介、公平、ヒハルが仲良くなるのもやや唐突で、総じて人の行動の動機・理由が軽んじられているように思う。
つまりは大人も子どもも、等しく人なのだ。訳もなく行動し、あるいは行動基準がエロだったりする、バカな人なのだ。少なくとも本作の登場人物は大人も子どもも、みな「馬酔の人」に見える。
違いがあるとすれば、子どもには闇雲に何かを信じ、闇雲に突き進むことができるという特権があることだろうか。だから彼らは、作品中で動機(信じたいから)を持つ数少ない存在・ヒハルの想いに乗っかって、闇雲な勢いで大人たちに宣戦布告、ただのバカじゃなくて、何かができるバカであることを立証しようとするのだ。
「蜂は航空力学的にいえば、飛べる構造じゃないらしいんだ。なのに実際には飛んでるだろ。なぜだと思う? 蜂は飛ぼうと思ったから飛べたんだ」
それは真実かも知れないが、それがすべてではない。
とりあえず子どもたちに軍配は上がるけれど、結局は大人たちの実利が勝つことが示される。それに、信じることで起こせる奇跡は確かにあるが、奇跡に頼らず一歩ずつ進むこともまた人の生きかた、まだ何かを信じているけれど自由意志や選択には責任がともなうことを知っている大人たちもいるだろうし、信じるよりも先にやらなければならないことがあったりして、闇雲にはなれないだけなのだろう。それは、人として、別に悪いことじゃない。
きっと子どもたちも、大人たちに絶望しているわけではない。クスクスと信平の関係を見れば、大人(になること)に絶望しなくていいってこともわかる。子どもたちは大人たちの事情をちゃんと承知している。やがて自分たちが大人になることだって、こんな小細工でヒハルをだませないことだってわかっている。
でも、だからこそ、やり切れなくてモノを壊したり、闇雲な暴走によってまだ子どもでいられる夏を満喫したりするのだ。
そして人は、飛んではならない。飛行機に流れ星に鳥人間にお守り、やたらと“飛ぶもの”が出てくるが、人は本来、ふたつの足で走ったり転げ落ちたり這いつくばったりして、地面に痕跡を残すものである。
登場人物には、誰かを失い、それを取り戻そうとしたり記憶を振り払おうとしたり、あがいている者が多い。そうやって、地面の上を前へ進もうとするのが人なのだ。
そうした価値観からすると本当に飛んでしまうのは奇跡なんかじゃなく、人であることからの、または大人になることからの逃避にほかならない。だから亮介は、飛んでしまった赤星だけに、罪と愚かさの象徴であるこの男だけに決別のサヨナラをいうのだ。
責任に目をつぶったまま、ずっと闇雲に生きる子どもでいることなどできないのだから。バカはバカらしく、人として大人になって生きていくほかないのだから(ああ、なんだかテーマが『妖怪大戦争』と同じところへ収束していくなぁ。ま、その理由はわかっているんだが)。
「バカだな、君たちは」
ああ、そうさ。人ってのはバカなのさ。バカだからこそ人なのさ。つまりバカっていうのは、人間に対する最上級の褒め言葉、あなたを人として認めますという意思表示なのだ。
ただ、大人になっても、ほんのちょっぴりだけ、闇雲に信じる心を持っていたいと望むのが人というものなのだろう。キャビンアテンダントたちの、ホっとした表情がそれを物語る。
そして、肩を組む亮介と公平とヒハルの後ろ姿に、闇雲さを心に残したまま大人になれる可能性も感じる。
そんな可能性に頼ってしまうからこそ、人はバカなのかも知れないが。
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