ヴェニスの商人
監督:マイケル・ラドフォード
出演:アル・パチーノ/ジェレミー・アイアンズ/ジョセフ・ファインズ/リン・コリンズ/クリス・マーシャル/ヘザー・ゴールデンハーシュ/ズレイカ・ロビンソン/ズレイカ・ロビンソン/マッケンジー・クルック/アラン・コーデュナー
30点満点中16点=監3/話2/出4/芸4/技3
【商人が握る証文は憎しみに満ちていた】
16世紀のヴェニス。莫大な遺産を相続した美貌の令嬢ポーシャに求婚すべく、資金援助を親友アントーニオに頼んだパッサーニオ。全財産を交易に注ぎ込んで手持ちのないアントーニオは「返済が遅れたら自分の肉1ポンドを差し出す」との証文を書き、3000ダカットをユダヤ人の金貸しシャイロックから借りる。が、アントーニオの貿易船は軒並み沈没、一文無しに。彼に日頃から恨みを抱いていたシャイロックは、約束を果たせと迫る。
(2004年 アメリカ/イタリア/ルクセンブルグ/イギリス)
【そもそもコンセプトからして失敗?】
まずは、お勉強から。
ヴェニスを「運河のある街」だと理解していたのだが、実際には「ほとんど海といって差し支えない湿地帯で、密集した小島に作られた海上都市」なんだとか。そのため資源に乏しく、交易を武器に発展した。
また特定の人物・一族が富を肥やして権力のバランスが崩れたり都市国家としてのまとまりを欠いたりせぬよう、資産の再配分までおこなわれていたらしい。本作で「公爵」と訳されていた人物も、ニュアンス的には「総督」が正しく、しかも抽選で選出され、実情はせいぜい街のまとめ役。かなり厳密厳格に“ルール”にのっとった国家運営がなされていたようだ。
そんな街で、キリスト教が禁止する金融業を営むのがユダヤの人々。それは彼らの存在意義であると同時に、異教徒として、やっかみも込めて、あるいは“公平な社会”という不公平から生じる不満のハケ口として、迫害を受けていたのだろう。
ちなみに1ポンドは約500グラム。3000ダカットは現在の貨幣価値に換算すると5000万円~1億円になるようだ。
以上のような前提に立って観てみると、本作は「キリスト教絶対主義への警鐘をテーマとする悲劇」ということになると思うのだが、シェークスピアによる原作はどちらかといえば「反ユダヤ的な喜劇」として受け止められているらしい。とすると監督・脚本のラドフォードによる大胆な解釈による映画化、ということか。
つまり原作を知ったうえで「ああ、なるほどこういう解釈をしたのか」という観かたをすべき作品。でないと、ちょっと……、という感じ。
肉を1ポンドという約束は、あくまで後に待ち受ける裁判沙汰がまずありきの“無理やり用意した設定”だし、箱チョイスによる夫選びも無理くり、ポーシャの行動や周囲のリアクションにも無理がある。
全編が無茶、あるいは何でもあり、はたまた寓話的。
何でもありのファンタジーとして観ればソコソコ面白い展開なんだが、それはやっぱり「男は女にかなわないという人間社会の真理を描くとともに、強欲な商人を懲らしめる喜劇」として提示すればのことであって、悲劇に仕立て上げるのはお門違いのようにも思える。
加えて、シェークスピアならではの、あのもったいぶった台詞回し。通常あり得ない(当時の欧州では、こういう会話をしていたのかも知れんが)というか、クサイ言葉でのやりとり。
もちろん舞台劇・戯曲の役割が、そういう“言葉の美しさ”といった部分も含めての楽しい虚構を作り出すものだということは認めるけれど、それはつまり、本作のような「ある程度リアリティを重視した映画」とはミスマッチってことだろう(登場人物の何人かは現代風の芝居をしていたので、そういう意味でもミスマッチ)。
まぁ「ああなるほど、このセリフをこういう演技で表現したのか」という観かたはできるだろうから、やはり原作を知ったうえで観るべき作品といえる。
作りとしては、見上げる・見下ろすアングルが多用されて舞台に立体感をもたらすとともに「いま、その場で誰が主導権を握っているか」を映像で表現するなど丁寧。体型までいつもと違って見えるアル・パチーノのキョドったオヤジ芝居をじっくりと見せるなど的確。自然光(らしさ)を重視しつつ街並みや室内装飾、衣装などを雰囲気たっぷりにうつすなど美麗。
この空気感や演技陣は悪くないのだから、もっと別の解釈や方法論で挑んだほうが面白いものになったんじゃないかな、と思う。
意欲は認めるけれど空回りしちゃったかも、という作品。
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