21グラム
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:ショーン・ペン/ベニチオ・デル・トロ/ナオミ・ワッツ/ダニー・ヒューストン/シャルロット・ゲンズブール/メリッサ・レオ/クレア・デュヴァル/デニス・オヘア/エディ・マーサン/マーク・ムッソ
30点満点中20点=監4/話4/出5/芸3/技4
【魂が消える瞬間】
余命宣告をされるほどの重病を心臓に抱え、移植手術を待つポール。別居していたものの、ポールの子を生みたいと願い戻ってきたメアリー。夫のマイケルやふたりの娘と仲睦まじく暮らすクリスティーナ。かつては悪行を重ねたが改心し、妻のメリーアン、幼い息子や娘とともに教会へと通い続けるジャック。交わるはずのなかった3つの家族が、ある事故をきっかけとして人生をクロスさせる。それは決死の、魂を賭けた悲劇の始まりだった。
(2003年 アメリカ)
【濃密に描かれる、生と死】
1つの事故を契機に複数の“生”が交わるという構成は『アモーレス・ペロス』と同様。対象物の生々しい捉えかたも共通項だ。『バベル』もまた不幸な事故に端を発するクロス・エピソードものだった。
ただし、本作は時制を思いっ切りバラバラにし、再構成して見せるという凝った作りも特徴。そのパズルめいた作りの必然性について考えざるを得ない。
この映画、多数登場するドクターとポールが雇った探偵以外に“働いている人”というのがほとんど出てこない(医者と探偵にしたって事実を述べるだけで、仕事らしい仕事をしている姿をあまり見せないのだが)。
特に物語の中心を占めるポールとクリスティーナ(と夫のマイケル)については、背景をほんの少し匂わすだけで、生産的なことは何もさせない。にも関わらず、ポールは結構な服を着てけっこうなクルマに乗り、クリスティーナの家族もけっこうな家に住みけっこうなクルマに乗っている。唯一、貧しいジャックだけが地道に働き、けれども職にあぶれてしまう。
皮肉な対照。しかし、それが世の中の現実。ただ、どんな生活を送っていようが“死”は突然に訪れる。前を見て暮らす、人生はこれからも続く、誰かが死ぬことで自分は助かる……。さまざまな状況や価値観はあれど、彼らの暮らしのどこを切り取っても“死”はついてまわる。
さらにいえば、切り取って提示されるシーンの多くに、あえぎ声や嗚咽が乗っけられ、苦悩のシワが捉えられる。
人生のすべての瞬間に、“死”は逃れようのない(あるいは神の意志か)試練として存在する。そんな作り。
もう1つ。あるカメラマンから聞いた「僕は1枚の写真でもストーリーを作る。でも、その物語のクライマックスを撮ってはダメ。クライマックスに至る直前にシャッターを切るんだ」という言葉を思い出した。
バツっと切られ、次の時制へと移行するシーン。その編集が、途切れてしまったさっきのシーンにも続きがある、それぞれの時間に彼らは生きているということを感じさせる。つまり“生”を意識させる作り。
人が歩む時間には、常に“生”と“死”とが並行して走っているということを、“死”と同時に“生”も連鎖していくということを、知らせるような映画となっているのだ。
身勝手なストーリーテリングのように思えて、いつの間にかそのペースに観る者を引きずり込むパワー。脚本ギジェルモ・アリアガ、撮影ロドリゴ・プリエト、そしてイニャリトゥ監督のトリオ、やはり只者ではない。
加えて今回は、役者への信頼感というものも画面から伝わってきた。ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ、ナオミ・ワッツという芸達者を得て、彼らの自由に任せた、という感じ(ジャックの息子フレディを演じたマーク・ムッソ君も身震いするほどの演技力を見せる。弟ふたりも役者らしく、やっぱりあちらにはそういう遺伝子が息づいているんだなぁ)。
彼らによる渾身の芝居を、責任を持って撮る側がすくい取る、そんな真剣勝負が、濃密なパワーとなって画面の中にみなぎるのだろう。
こんなふうに、物語と演出と芝居とが同じ方向を向き、高度な次元で絡み合って作られた映画を、より多く観たいものである。
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