パンズ・ラビリンス
監督:ギレルモ・デル・トロ
出演:イバナ・バケロ/セルジ・ロペス/マリベル・ベルドゥ/アリアドナ・ヒル/アレックス・アングロ/ロジャー・カサメジャー/セザール・ヴェア/ダグ・ジョーンズ
30点満点中20点=監4/話3/出4/芸5/技4
【内乱のスペインで、少女が迷い込んだ幻想の国】
1944年、内乱の続くスペイン。本が大好きなオフェリアは、身重の母カルメンとともに山荘へとやって来る。そこでは母の再婚相手であるビダル大尉が、軍を率いて反乱勢力の掃討にあたっていた。新しい父を受け入れられないオフェリアは、妖精に導かれて守護神パンと出会う。「あなたこそ魔法の国の王女の生まれ変わりだ」とパンに告げられるオフェリア。“故郷”へと戻るための3つの試練に、彼女は立ち向かっていくことになる。
(2006年 メキシコ/スペイン/アメリカ)
★ネタバレを含みます★
【デル・トロ版のアリスは、かくも哀しい】
予備知識は、ほとんどなし。というか、純粋なダーク・ファンタジー(っていう表現も変だが)だと思って観た。
それが、よもや反戦映画だったとは。
徹底されるのは“つながり”だ。
あの『トゥモロー・ワールド』を押さえて撮影賞でオスカーを獲得したギレルモ・ナヴァロのカメラは、常に「奥から手前」という人の動きを捉え、あるいは対象となる人物+意味のある背景という絵を作り出す。奥行きのある空間で、何かが迫ってくる、何かを突きつけられる、という画面構成。それが、現実世界でも夢幻世界でも繰り返される。
音楽は、低域の限度いっぱいでゴゴゴと響く。魔物もビダルも、同じその音を背負って人を追い詰める。追い詰められた人を癒すように、子守唄をモチーフとした変奏曲が繰り返し流れる。
金や赤や緑が妖しく光る美術は、人と物の怪がともに持つ残酷さと醜悪さを何度も何度も描き出す。世界は、人の肉と血=子どもたちの未来をすすって生きる魔性の棲み家であるのだと思い知らせる。
オフェリアの冒険が主、オフェリアの周辺世界は添え物、という扱いが、ファンタジーならなされるべきだろう。が、本作はそうではない。“こちら”と“あちら”に境界線がないことを、あるいは“こちら”のうつし鏡として“あちら”が存在することを、ふたつの世界が“つながり”を持つ連続した場であることを、演出によって印象づけていくのだ。
まわりじゅう、どこもかしこも、あっちもこっちも封鎖され、どこへ行っても「私を私でなくしてしまうもの」や近寄りたくない魔性に満ちている世界。その中に置かれるのは3人の女性である。
母カルメンは、同化しようとする。自分の身を守るために、周囲にある忌むべきものに自身を溶け込ませようとする。
メルセデスは抵抗する。雌伏し、隙をうかがい、暴力には暴力をもって抗おうとする。
そしてオフェリアは、意志を滅して溶け込む強さも持たず、意志を貫いて抗う強さも持たず、ただただ逃げるしかない。
イライラするほどの「自分は媚びているわけではない」っぷりを見せるカルメンのアリアドナ・ヒル、愛と信念で戸惑いを隠して走り続けるメルセデスのマリベル・ベルドゥ、平凡な中に純粋さとエロチシズムとをしっかり同居させたオフェリアのイバナ・バケロ、いずれも的確なキャスティングと演技で、本作の中心である「魔に囲まれた女性たち」をまっとうする。
死に場所(あるいは死にかた)を探して身勝手に暴虐を続ける、そんなビダルのエゴによって人生を狂わされる3人の女性たち。争い・無慈悲・残忍さ・征服欲を属性として持つ人の象徴としてのビダルと、その犠牲者としての存在(とりわけ、逃げることしかできない弱い少女)を描くことで、本作は反戦映画として、いや、それを超えて、ヒトという醜悪な生き物を弾劾する映画として機能するのである。
ルイス・キャロルによって生まれたアリスは、少女たちを楽しませる夢物語のヒロインだった。それをギリアムは「信念とともに乗り切っていかなければならない世界」である現代社会に舞台を移し、その中で生きる存在を主役にして『ローズ・イン・タイドランド』を作り上げた。ジェライザ=ローズは、行き場のない世界で“遊ぶこと”によって、まさに乗り切っていこうとしたのだ。
デル・トロ版のアリスであるオフェリアは逃避を続ける。
押さえ込まれ、そこから逃げることによって鮮やかな夢が生まれるとは、なんて哀しいことなんだろうか。「だから少女は幻想の国で、永遠の幸せを探した。」とは、なんて哀しいキャッチコピーなんだろうか(いかん、書いてて泣けてきた)。
そして、その夢と幻想すらも、ここでは許されないのだ。あるのは、ただ絶望。絶望を希望だと思い込み、切なく響く子守唄を聴きながら眠りにつくオフェリアの姿と、そんな世界を作り出した人類の愚かさに、涙を禁じ得ない。
レーティングはPG-12、すなわち「12歳以下の鑑賞には保護者同伴が望ましい」。親たちは子どもたちの横に座って、この映画の中の何を咀嚼させようとするだろうか。それとも「世の中そんなにひどくない」というまやかしを子どもたちに向けて吐くチャンスを、大人たちに与えるための措置なのだろうか。
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